2018-03-25 12:46:00

イエスのエルサレム入城に響く叫びを観想、教皇、受難の主日のミサで


教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ広場で、「受難の主日」のミサを捧げられた。

3月25日、カトリック教会の典礼暦は「受難の主日」を迎えると共に、復活祭直前の一週間、キリストの受難を記念する「聖週間」に入った。

「聖週間」の第一日目「受難の主日」は、「枝の主日」とも呼ばれる。

この日は、イエスのエルサレムに入城した際に、大勢の群集が自分の服や、木の枝を道に敷き、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫んでイエスを歓迎したという福音書の記述を思い起こし、ミサの前に、オリーブやシュロの枝を掲げて、宗教行列が行なわれる。

また、「受難の主日」には、教区レベルの「世界青年の日(ワールドユースデー)」が記念される。

第33回目となる今年の「世界青年の日」のテーマは、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」 (ルカ 1,30)。

このミサには、ローマ教区と周辺教区の青少年、また、ローマで開催された若者をテーマとしたシノドス準備ミーティングや、大学生のフォーラムの参加者たちの姿が見られた。

ミサ開始前、教皇フランシスコは、聖ペトロ広場のオベリスクの前で、人々が手にする枝を祈りと聖水をもって祝別。

続いて、若者たちや、修道者、司祭、司教、枢機卿、そして教皇は、枝を掲げ、賛歌に声を合わせながら、大聖堂前の祭壇まで行列した。

教皇はミサの説教で、イエスのエルサレム入城に響く様々な叫びを観想。

エルサレムに入城したイエスを迎える民衆の歓喜と祝祭、主を賛美する叫びにわたしたちも招かれる一方で、主の十字架の道行と共に、その喜びは苦しみと苦さへと変えられていく。教皇は人々の叫びを通し、こうした主の受難の出来事に交差する喜びと苦悩を見つめられた。

教皇は、主の受難の物語は、多く愛することができる一方でまた憎悪することもでき、立派な犠牲ができる一方ですぐに自分は関係ないと背を向けることもできる、今日のわたしたちの感情や矛盾をも明るみに出すものと話された。

エルサレムでイエスは人々の歓呼に囲まれる。教皇は、それは自分たちの苦しみや惨めさの中でイエスの憐れみに触れ、イエスに従った人々の叫び、赦され、自信と希望を取り戻した罪びとたちの喜びの声であったと述べられた。

しかし、その一方で、人々の歓喜は、律法や宗教上の義務に「忠実」で自らを正しいと考えている人々には迷惑なもの、人々の苦しみや貧しさに対する感受性を失った人々にはいらだたしいものであった、と教皇は指摘。

自分の力を過信し、自らを他人より優れた者と思い込む者たちにとって、人々と喜びを分かち合うのは、いかに難しいことであったかと話された。

「十字架につけろ」というイエスに対する叫びは、こうして生まれたと述べた教皇は、それは自分の立場を守りたい者の声、驕りや傲慢による計略が作り出した叫びであったと語られた。

そして、最後には民衆の祝祭は止められ、希望や夢は壊され、喜びはかき消された。人々は心を閉じ、愛は冷えてしまったと話された。

こうしたすべての叫びを前に、わたしたちがとるべき態度、それは十字架上のキリストを見つめ、キリストの最後の叫びを聞いて、そこから自問することであると教皇は強調。

わたしたち一人ひとりへのご自分の愛を叫びながら亡くなられたイエスを思うよう招かれた。

教皇はこのミサに集った若者たちに、彼らの心にイエスが生む歓喜を消さないようにと願われた。

ここで教皇は、イエスのエルサレム入城の日に響いたもうひとつの声、神を賛美する弟子たちにいらだち、「先生、お弟子たちを叱ってください」(ルカ19,39)とイエスに言った人々の声と、それに対し「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」(同19,40)と答えたイエスの言葉を思い起こされた。

教皇は、いろいろな方法で若い人たちの声がかき消されても、また、たとえ世界が沈黙し、喜びが失われても、「石が叫び出す」前に叫ぶことができるか、それは皆さんの決断にかかっていると、若者たちを励まされた。

 








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