教皇フランシスコは、バチカンで3月4日、日曜正午の祈りを信者と共に唱えられた。
厳しい寒波が去った後のローマは、大きく気温が上昇したものの、雨がちな空模様が続いている。この日は朝から雲に覆われたが、教皇の祈りと祝福のために、聖ペトロ広場には多くの巡礼者が集った。
集いの説教で教皇は、この日のミサで朗読された、イエスが神殿から商人を追い出すエピソード(ヨハネ2,13-25)を取り上げられた。
過越祭が近づき、エルサレムに上ったイエスは、神殿の境内で商売をしている人たちをご覧になり、縄で鞭を作り、彼らの台を倒し、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(2,16 )と言われた。
この確信に満ちた大胆な行為は、過越祭を前に賑わう人々を驚かせ、宗教的権威者らと自分の商売を脅かされた者たちの敵意を生んだ。
イエスのこの行為をどのように解釈すべきか、と問われた教皇は、イエスのこの行動は、当時の人々に、治安上の介入を必要とする性質のものではなく、神の名のもとに、人々の乱用や行き過ぎを咎める、預言者的なものとして映ったと説明。
イエスの態度は、特に弟子たちの目には、「あなたの神殿に対する熱情がわたしを食い尽くす」という詩編の言葉(69,17)を思い出させるものであった。
教皇は、この詩編は敵の憎しみによってもたらされた最大の危機の中で神の助けを祈り求めるものであり、イエスはやがてその受難によって同じ状況に置かれることになると指摘。
御父と御父の家を思う熱意が、イエスを十字架へと至らせる過程を観想された。
「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(ヨハネ2,18 )、すなわち、どんな権限があってこのようなことをするのか、というユダヤ人たちの問いに、イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と答えて言われた。
これについて、福音書記者ヨハネは、「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである」(2,21)と記している。
教皇は、イエスの過越しによって新しい信仰が、イエスご自身である新しい神殿において愛の信仰が始まったと語られた。
神殿におけるイエスの態度は、わたしたちの人生を自分の利益のためでなく、愛である神の栄光のために生きるように招いていると教皇は強調。
「わたしの父の家を商売の家としてはならない」というイエスの言葉は、愛ではなく、利得を追い求めて生きることで、神の住まいであるわたしたちの魂を、一種の商売の場所にしてしまう危険に気付かせてくれると話された。
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