2018-02-28 13:24:00

感謝の典礼の「奉納」が教えてくれるもの、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで2月28日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

ローマはこのところ大きな寒波に見舞われ、市内でも積雪や氷柱などが見られた。

この寒さのために、同日の謁見は広場では行なわれず、パウロ6世ホールと、聖ペトロ大聖堂の2カ所を会場に開催された。

謁見中、「ミサ聖祭」をめぐるカテケーシスを続ける教皇は、この日はミサの後半、「感謝の典礼」の考察に入られた。そして、感謝の典礼の「奉納」をテーマに講話された。

ミサにおいて、「ことばの典礼」に続き、「感謝の典礼」が行なわれる。

教会は「感謝の典礼」の多くのしるしを通して、イエスによって十字架の祭壇で結ばれた新しい契約の犠牲を現存させ続けると教皇は話された。

「イエスの十字架の祭壇は、キリスト教の最初の祭壇であり、わたしたちがミサを祝うため祭壇に近づく時、わたしたちの記憶は、最初の犠牲が捧げられた十字架の祭壇へと向かう。」

「司祭は、主ご自身が最後の晩餐で行い、弟子たちに託されたこと、すなわち、パンと杯を取り、感謝を捧げ、弟子たちに与えて『皆、これを取って食べなさい... これを受けて飲みなさい。これはわたしのからだ、...これはわたしの血の杯。これをわたしの記念として行ないなさい。』と言ったことを、主の代わりに行なう。」

教皇は「感謝の典礼」についてこのように説明された。

イエスの指示に忠実に、教会は典礼をイエスの受難の前夜の言葉と行いに合わせて形作ってきた。

「パンと杯を取った」というイエスの行為に対応し、最初に供え物の準備としてパンとぶどう酒が祭壇に運ばれる。

信徒はパンとぶどう酒を司祭のもとに運ぶが、これは彼らも教会の霊的な捧げ物となることを意味する。

こうしたことから、教皇は、信徒たち自身が祭壇にパンとぶどう酒を運ぶことは素晴らしいことである、と述べられた。

パンとぶどう酒のしるしのもとに、信徒たちはその捧げ物を司祭の手に渡し、司祭はそれを主の食卓である、祭壇の上に置く。

教皇は、祭壇とはミサ全体の中心であり、祭壇とはキリストであると強調。常に祭壇をミサの中心として見つめなければならないと話された。

「信徒たちの努力は、『大地の実り、労働の恵み』として、『全教会のため』に捧げられ、『全能の父である神が受け入れてくださる』捧げ物となる。」

「感謝の典礼において、信者たちの生活や、苦しみ、祈り、労働などは、キリストのそれと、キリストの完全な奉献に結ばれ、新たな価値を得ることになる。」

奉納の意味について、教皇はこのように説明された。

わたしたちの捧げ物はわずかであっても、キリストはそのわずかな物を必要とされていると教皇は指摘。

日常生活の中の善意や、開かれた心、聖体を通してキリストをふさわしく迎えるためによりよい状態でありたいという望みを、キリストはわたしたちに願われていると話された。

そして、こうしたわずかな捧げ物が、キリストの御からだ、御血となって、パンを増やす奇跡(マルコ 6,38-44)のように、キリストの肢体である教会において、すべての人を養い、一致させる聖体の恵みに変容すると説かれた。

奉納において、司祭は教会のこの捧げ物を神が受け入れてくださるように願うことで、わたしたちの貧しさと、神の豊かさの交換という、驚くべき恵みを祈ることになると教皇は語られた。

ミサの奉納は、わたしたちに自らを捧げるという霊性を教えてくれると述べた教皇は、この霊性がわたしたちの日常や、人間関係、行動、苦しみなどを照らしてくれるようにと祈られた。

 

 








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