2018-02-07 14:26:00

ミサ中の福音朗読と説教について考察、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、2月7日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇はミサ聖祭をめぐる一連のカテケーシス(教会の教えの解説)として、この日は「ことばの典礼」中の「福音朗読」と「説教」について考察された。

神とその民の対話は「ことばの典礼」を通して育まれ、それは福音の告知で頂点に達する。

福音書朗読の前のアレルヤ唱、または四旬節の詠唱によって、会衆は主を迎え、主に挨拶し、そして主は福音を通して話されると、教皇はアレルヤ唱が 果たす役割を示された。

キリストの神秘が聖書の啓示全体を照らすように、「ことばの典礼」において、福音書は、先立って朗読された旧・新の聖書の意味を理解する光となると教皇は説明。

そのために、典礼自体も、福音朗読と他の朗読を区別するために、福音を特別な栄誉と崇敬で取り囲んでいると話された。

そして、そのしるしとして、福音の朗読者は叙階された者に限られること、朗読者は最後に福音書に接吻すること、会衆は福音朗読の際、立ち上がり、額と口と胸に十字を切ること、ろうそくや献香によって福音朗読を通して語られるキリストへの栄誉を表すことなどを挙げられた。

教皇は、わたしたちが立ち上がるのは、福音の朗読を聞くためではなく、わたしたちに話しかけるキリストに対してであり、主とのこの直接の対話のために、わたしたちは注意を傾けなければならないと教えられた。

ミサでは、話の筋を知るために福音を読むのではなく、イエスの言われたこと、なさったことを認識するために、その生きた言葉に耳を傾けるのであると教皇は述べられた。

「キリストの口とは、福音書である」という聖アウグスティヌスの言葉を引用された教皇は、典礼の中でキリストが福音を告げておられるならば、ミサに与るわたしたちはそれに答えなければならないと話された。

次に、教皇は、キリストはご自分のメッセージが届くよう、司祭の「説教」も利用されると述べた。

ミサの説教は、適当に場をしのぐための話でも、会議や、授業でもない、それは主とその民との間に始まった対話を再び取り上げながら、それが生活の中で完成されることを目指すものと、教皇は話された。

教皇は「真の聖書注解は、わたしたちの聖なる生活である」と強調。

聖母や聖人たちにとってそうであったように、主のみ言葉はわたしたちの中で、業となって形をとることで、その目的を達すると話された。

説教を行う者は、その役割を良く果たす必要があり、一方で、説教を聞く者たちも、心を整え、注意を払わなければならないと教皇は述べた。

教皇は、説教者に、自分のための説教ではなく、イエスの代弁者としてイエスの言葉を説教するよう願われた。

そして、説教は、祈りとみ言葉の勉強のもとによく準備された、明解で、短いものでなくてはならず、10分を超えないことが望ましいと話された。








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