教皇フランシスコは、バチカンで11月22日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
謁見中、教皇は「ミサ」をテーマとしたカテケーシス(教会の教えの解説)として、「キリストの過ぎ越しの神秘の記念としてのミサ」について考察された。
「ミサはキリストの過ぎ越しの神秘の記念である」と教皇は強調。
それは罪と死に対するキリストの勝利に参与することであり、わたしたちの人生を意味で満たすものと話された。
では聖書的な意味での「記念」とは何だろうかと教皇は問いながら、記念とは単に過去の出来事を記憶することではなく、その記憶を何らかの方法で今ここに現存させることであると説明。
イスラエル人たちが出エジプトの出来事の記憶を過ぎ越しの祭りを通して新たにするように、ミサはイエスの過ぎ越しの記念であり、イエスはその過ぎ越しをわたしたちのために行われ、それによってわたしたちを隷属から解放し、永遠の命という約束の地に導かれると語られた。
「聖体はわたしたちを常に神の救いの業の頂点に導く」と述べた教皇は、「十字架の犠牲が祭壇の上で行なわれるたびごとに、われわれの贖いの業が行なわれる」という第2バチカン公会議の「教会憲章(3)」の言葉を引用された。
「すべての聖体祭儀は、復活したイエスの沈むことのない太陽の光線である」
「ミサ、特に主日のミサに与ることは、復活の主の勝利の中に入り、その光に照らされ、その温かさに温められること」
「イエスは、死から命へ、時間から永遠へと移られる中で、わたしたちをもその中に引き入れ、ご自身と共にわたしたちを過ぎ越させる」
教皇はこのように話された。
「ミサにおいてわたしたちはキリストと一致する。キリストがわたしたちの中に生き、わたしたちがキリストの中に生きる」と述べながら、教皇は「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」という使徒聖パウロの言葉(ガラテヤ2,19-20)を思い起こされた。
イエスはその死を究極の愛の業に変容したがゆえに、キリストの過ぎ越しは死に対する完全な勝利となったと教皇は指摘。
聖体祭儀において、キリストはこの過ぎ越しの、勝利の愛をわたしたちに伝えることを望まれると説かれた。
「もし、キリストの愛がわたしの中にあるのならば、わたしは自分自身を完全に他人のために捧げることができる。殉教者たちは、まさにこのイエスの死に対する勝利の確信のもとに自らの命を捧げた。キリストの愛の力を体験して初めて、わたしたちは恐れず自分を自由に捧げることができるようになる」と教皇は語られた。
ミサのために教会に入る時、「自分はカルワリオに入るのだ。そこではイエスはわたしのためにご自分の命を与えられたのだ」と考えるようにと教皇は招き、そうすれば、ミサの中でおしゃべりはなくなり、わたしたちは沈黙のうちに、救われたことに対する涙と喜びに満たされるだろうと話された。
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