2017-10-15 16:11:00

バチカンで列聖式、教皇「神の招きに応えて、愛を生きよう」


教皇フランシスコは、10月15日、バチカンでミサを捧げられ、この中で列聖式をとり行われた。

このたび、聖人として宣言されたのは、17世紀のブラジル、16世紀のメキシコでの殉教者、また、19世紀のスペイン、17-18世紀のイタリアで使徒職のために尽くした司祭たち、合わせて35人。

晴れ渡った空のもと、聖ペトロ広場には新聖人たちにゆかりのある土地や修道会を代表する人々が詰め掛け、聖人たちの生涯とその信仰を改めて心に留め、列聖の喜びを分かち合った。

列聖の儀式では、教皇庁列聖省長官アンジェロ・アマート枢機卿が、35人の福者の列聖を願い出ると共に、これらの聖人たちの人となりが次のように紹介された。

-アンドレ・デ・ソベラル神父、アンブロジオ・フランチスコ・フェロ神父、マテウス・モレイラ信徒と27人の同志殉教者。
16世紀末、ブラジル東北部でポルトガルからの宣教師による福音宣教が開始されたが、数十年後にオランダから訪れたカルヴィン派による迫害によって、1645年、多くのカトリック教徒が殉教した。その中で名前が確認されたのは、上記2神父と28人の信徒である。

-クリストバル、アントニオ、ホアンの、3人の少年殉教者たち
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6世紀のメキシコの初期殉教者。3人はフランシスコ会の最初の宣教者たちによって堅固なカトリックの教育を受けた。クリストバルはその信仰のために、父から暴力を受け、1527年、13歳で殉教。アントニオとホアンは宣教師たちのためにインディオスの通訳として奉仕、死を覚悟の上で、宣教師らが偶像を破壊するのを助け、1529年、インディオスたちに殺害された。

-ファウステイノ・ミゲス神父(スペイン1831-1925)
1850年、エスコラピオス会に入会。1853年、終生誓願。1856年、司祭叙階。1857年、キューバに同会の最初の学校を創立するために派遣された。その後、スペイン各地で教育に携わった。ミゲス神父の教育における奉仕は50年以上にわたり、彼にとって学校は子どもたちを愛した主イエスとの出会いの場であった。また、特に貧しい人や、弱い立場の人、病者に愛を注いだ。当時の貧しい女性たちの置かれた状況に、早期からの教育の必要を痛感したミゲス神父は、「牧者マリアの娘カラサンス修道会」を創立。聖ヨセフ・カラサンスの霊性に従い、少女たちの教育に尽くした。

-アンジェロ・ダクリ神父(イタリア1669-1739)
南イタリアのアクリに生まれ、カプチン会に入会。1700年、司祭叙階。1702年から、その帰天まで、カラブリア地方を中心に、南イタリア各地で説教師、告解師、霊的指導者として精力的に奉仕した。1726年、アクリに同会の修道院を創立したほか、各地の修道院で修練長を務め、管区の要職を歴任。38年間の熱心な使徒職の後、帰天した。

荘厳な諸聖人の連祷に続き、教皇は列聖の式文を読み上げた。

説教で教皇は、ミサ中の福音朗読箇所(マタイ22,1-14)の「婚宴」のたとえを取り上げ、主の婚宴に招かれるとはどういうことかを考えた。

自分の都合で神の招きを拒否する人々が多くいる中で、福音は、わたしたちが神の側にいるのか、自分の側にいるのかを問うていると話した。

また、教皇は、神の招きに対し、礼服を着ていくということは、神の御旨を実践し、毎日、愛を生きるという習慣で身を整えることと語った。

教皇は、この日列聖された聖人たちは、神の愛に応え、それを人生をもって最後まで突き詰めていった人たちであり、彼らが身につけていた服とはイエスの愛であったと述べた。

わたしたちも洗礼の日に受け取った白い衣を、神のための婚姻の衣装として思い起こし、この衣を毎日選び、身につけ、清く保つ恵みを得られるようにと、教皇は新聖人たちの取次ぎを祈った。

 








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