2017-10-04 17:25:00

「今日、希望の宣教者であるということ」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで10月4日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は「キリスト教的希望」をテーマに、今日において「希望の宣教者」であるとはどういうことかを考察された。

キリスト者は不運の預言者ではない、キリスト者が告げるのはその反対のことであると教皇は述べ、イエスは愛のために死に、神はイエスを復活させられた、これがキリスト教信仰の核であると話された。

もし、福音書がイエスの埋葬で終わっていたならば、イエスは預言者として、理想のために命を犠牲にした英雄たちの伝記に加えられ、福音書はためになり慰めを与えこそすれ、希望を告げるものにはならなかっただろうと語られた。

しかし、福音書は聖金曜日で終わることなく、その先へと進み、まさしくこの最後の部分がわたしたちの人生を変えることになったと教皇は話された。

イエスの十字架上での死によって、弟子たちの師イエスと過ごした熱狂的な3年間は終わり、彼らはすべてが終わったという思いの中で失望し、慄いていたと教皇は指摘。

イエスの復活という思いがけない出来事は、弟子たちのその思いを覆し、さらに聖霊降臨によって、彼らは変容させられた、イエスの復活は聖霊の力と共にわたしたちを変えたと説かれた。

イエスの復活を告げるには、言葉だけでなく、行いと生き方を通した証しが必要であり、信仰から来る希望を、人を受け入れる態度や、微笑み、特に愛することによって示していかなければならないと話された。

復活の力は、キリスト者に困難の中でも愛することを可能にすると述べた教皇は、「キリスト者には、精神力や楽観主義だけでは説明できない何かがある」「ある存在に助けられて、キリスト者の頭上には、空が幾分多く広がっている」とその力を表現された。

キリスト者のこの世の課題は、救いの空間を開くこと、と教皇は強調。

真のキリスト者は悲しみに沈まず、怒らず、復活の力によって、いかなる悪も無限ではなく、終わらない夜は存在せず、人間は永遠に誤りの中に留まらず、どのような憎しみも愛には勝利できないと確信している人のことと話された。

教皇は、中東のキリスト教徒をはじめ、迫害の中にも、神に希望を置き、人々と共に留まった信者たちの存在を思い起こし、彼らを真のキリスト者として称えられた。

わたしたちは、復活したキリストにおいて希望を保ち続けることができると述べた教皇は、キリスト者が希望の宣教者であるのは、自分たちの力ではなく、地に落ち、死に、多くの実をもたらした一粒の麦、イエスのおかげであると説かれた。








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