2017-09-04 11:51:00

自分の十字架を背負ってイエスに従う自覚を持つ、教皇、日曜正午の集い


教皇フランシスコは、9月3日、日曜正午の祈りを信者らと共に唱えられた。

ローマでは、長く続いた猛暑も一段落し、この日曜日は過ごしやすい一日となった。バチカンの聖ペトロ広場では、さわやかな青空の下、大勢の巡礼者らが教皇の言葉に耳を傾けた。

集いの説教で教皇は、この日の福音朗読箇所、マタイ福音書中の、イエスが弟子たちにご自分の死と復活を打ち明ける場面(16,21-27)を観想された。

イエスはここで、ご自分がエルサレムに行き、そこで殺され、復活することになっていると言った(16,21)。ペトロはイエスをわきにお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめた。すると、イエスは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(16,23)とペトロを叱った。

教皇は、同福音書のこのエピソードに先立つ部分で、シモン・ペトロは、イエスから「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に教会を建てる」と言われたばかりにも関わらず、その直後に、メシアの道を妨げる「つまづきの石」として叱られていることに注目。

ペトロと他の弟子たちには、使徒となるためにまだ長い道のりがあると、イエスは知っておられたと述べられた。

この段階で、イエスは弟子たちに向かって、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(16,24)と、はっきりと行くべき道を示された。

今日においても、十字架を背負わずにキリストに従おうとする誘惑、それどころか、ペトロのように、神に正しい道を教えようとさえする誘惑があると教皇は指摘。

しかし、イエスは、ご自分の道は愛の道であり、自己犠牲なしでは本当の愛はあり得ないことを思い出させていると説明された。

教皇は、わたしたちはこの世の見方に捉われることなく、キリスト者として逆風の上り坂を行く必要とその苦難を常に自覚しているべきと呼びかけられた。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(16,25)とイエスは弟子たちに言うが、神の黄金律ともいえるこのパラドックスは、「愛だけが人生に意味と幸福を与える」というということを示していると教皇は述べた。

自分の才能やエネルギーや時間を、自分の救いと実現のためだけに使うことは、むしろ自分を失わせ、悲しい、不毛な存在としてしまうが、主のために生き、愛の上に生活を築くなら、わたしたちは真の喜びを味わい、わたしたちの人生はもはや不毛ではなく、実り豊かなものとなると説かれた。

そして、教皇は、神の御子の贖いの犠牲の記念を思い起こすだけでなく、それを行なうことで、十字架の神秘を再び生きるミサに与り、聖体によって、イエスに従い毎日を歩む力を得ながら、兄弟たちに具体的な奉仕をすることができるよう願われた。

 

 








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