2017-08-09 16:09:00

「希望の原動力である、神の赦し」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで8月9日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシスで教皇は、「キリスト教的希望」の考察として、「希望の原動力である、神の赦し」をテーマに話された。

この講話に先立ち、ルカ福音書のイエスが罪深い女を赦すエピソードの一部(ルカ 7, 44.47-50)が朗読された。

イエスがファリサイ派のシモンの家で食事の席に着くと、この町で罪深いことで知られる一人の女が入ってきて、イエスの足を涙で濡らし、それを自分の髪でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。シモンはイエスがもし預言者なら、罪深い女のこの行為を赦すはずがないと思った。

これに対し、イエスは「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる」と言い、女に「あなたの罪は赦された」と言った。

教皇は、イエスが公的生活の最初から見せた、病気や疎外に苦しむ人たちに積極的に寄り添う態度を指摘。

苦しむ人がいる時、イエスはその苦しみを背負って自分のものとされ、人の苦しみを前に、イエスの心は憐れみを感じ、その人に癒しと解放、満たされた命を望まれると話された。

教皇は、こうしたことから、イエスは罪びとに対しても、いつくしみに満ちたその心を開かれると強調。

今日でも道を誤った人は多くいるが、それは彼らを別の眼差しで、すなわち神の心、希望の眼差しで見つめてくれる人に出会えなかったからであると述べられた。

イエスは彼らの中に復活の可能性を見つめ、そのいつくしみをもって、赦し、抱擁し、理解し、寄り添ってくれると説かれた。

一方で、教皇は、わたしたちは罪の赦しを体験することに慣れてしまっているかもしれないが、実はこの罪のために神の愛は非常に多くの犠牲を払ったということを忘れてはならないと注意。

イエスが十字架にかかったのは、病人を癒したからでも、愛徳を説いたからでもなく、わたしたちの罪の赦しと、人類の心の完全で最終的な解放を望んだからであると語られた。

また、罪びとが赦されるというのは、罪の意識から解放されるという単に心理的レベルのものではなく、イエスがわたしたちにもたらすものはもっと大きなもの、道を誤った人に、新しい命の希望、愛に満ちた人生を与えるということであると話された。

そして、教皇は、イエスとの出会いによって新しい心を与えられた、徴税人マタイや、徴税人の頭で金持ちのザアカイ、イエスの説く「生きた水」に望みをかけるサマリアの女などのエピソードを挙げられた。

「神は教会の基礎を作るのに、過ちを知らない人たちを選ばれなかった。教会は罪びとたちからなる民であり、彼らは神のいつくしみと赦しを体験する」と述べた教皇は、罪びとであるわたしたちは神のいつくしみを必要とし、そこから自分を変える力と毎日の希望を得ていると話された。

 








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