2017-07-17 11:30:00

「心に御言葉の種が実を結ぶために」教皇、日曜の集い


教皇フランシスコは、バチカンで7月16日(日)、正午の祈りを信者らと共に唱えられた。

集いの説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所として、マタイ福音書の「種を蒔く人」 のたとえ(13,1-23)を取り上げられた。

教皇は、このたとえ話にあるように、イエスは忍耐と寛大さをもって御言葉の種を蒔かれ、わたしたちがそれを受け入れる時、その種は実を結ぶと話された。

このたとえ話は、種を蒔く人ではなく、種が落ちた先の土地がどのようなものであるかを問題にしていると、教皇は指摘。

わたしたちの心は土壌のようなものであり、心が良い状態ならば、神の御言葉は身を結ぶが、心が固い状態だと、水も通さず、御言葉の種が蒔かれても、道のようにそれを撥ね返してしまうと話された。

良い土地に蒔かれた種と、道端に落ちた種の中間にあるものとして、イエスは他の2つの状態、石だらけの土と、茨(いばら)の間に落ちた種について、それぞれ述べている。

最初の「石だらけで土の少ない所」に落ちた種は、芽を出すが、土が浅いので深く根を張ることができない。

教皇はこれについて、うわべだけの心で主を受け入れ、祈り、愛し、証ししようとしても、長続きせず、すぐに疲れてしまう状態であるとし、「自分に都合のいい時だけ主を受け入れても、実を結ぶことはない」と話された。

一方、茨の中に落ちた種は、芽が出ても、生い茂る茨の枝にふさがれて成長できない。イエスは、ここで茨が意味するものは、御言葉を覆いふさぐ「世の思い煩いや富の誘惑」であると自ら説明されている(マタイ13,22)。

教皇は、茨とは神の存在を覆ってしまう悪徳や、この世の富という偶像、自分自身や権力のための貪欲などを指していると語られた。

このような茨を生やしておくならば、わたしたちの中で神の成長が覆い隠されてしまうだろうと述べた教皇は、清い心を持つことを妨げるこうした心の茨を抜き捨てない限り、神の御言葉は実を結ばないと話された。

「イエスはわたしたちに自分の心の中を見つめるよう招いています。信仰をもって神の御言葉の種を受け入れるために、わたしたちの心は開かれているでしょうか。そこに怠惰という大きな石がたくさん転がっていないでしょうか。悪徳の茨を見分けることができるでしょうか。」

このように問われた教皇は、心の土壌を改良する勇気を持ち、祈りや赦しの秘跡を通して、わたしたちの心の中の石や茨を主に差し出すよう、信者らを招かれた。

そして、教皇はこの日祝った「カルメル山の聖母」に、わたしたちが心を清め、そこに神をお迎えすることができるようにと、その助けを祈られた。

 








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