2017-04-19 15:02:00

「復活のキリストはわたしたちの希望」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで4月19日、一般謁見を行われた。

復活祭後最初の水曜日、ローマは気温が下がったものの、澄んだ青空に恵まれた。謁見会場となったバチカンの聖ペトロ広場には、およそ2万人の巡礼者が集った。

謁見中、教皇は「キリスト教的希望」をめぐるカテケーシスとして、「復活のキリスト、わたしたちの希望」をテーマに講話された。

使徒聖パウロは「コリントの信徒への手紙1」(15,1-5)の後半で、キリストの復活について記し、その復活を信仰の原点、希望の源として示している。

パウロはそこで、「イエスはわたしたちの罪のために死に、葬られ、三日目に復活し、ペトロに現れ、その後、十二人に現れた」と、イエスの最初の弟子たちが証ししたことをこのように要約している。

教皇は、パウロがこれらのことを語る時、叡智ある誰かの思考の結果ではなく、何人かの人生に直接入ってきた紛れもない事実という点から出発していることを指摘。

キリスト教はイデオロギーや哲学体系から生まれたのではなく、イエスの最初の弟子たちが証しする出来事を出発点とした信仰の歩みから生まれたものと話された。

信仰の中核となるこれらの証しの中で、パウロは特にイエスの復活という過ぎ越しの神秘について強調している。

これについて教皇は、もしイエスが死んだだけで終わったならば、最高の自己犠牲の模範にはなっても、わたしたちの信仰を生むことはなかっただろうと述べ、わたしたちの信仰はまさにイエスの復活から生まれたものと述べられた。

キリストの死という歴史的事実を受け入れることは信仰行為とは言わないが、キリストの復活を受け入れること、これこそは信仰の行為であると述べた教皇は、わたしたちの信仰は復活の朝に生まれたと説かれた。

パウロは復活したキリストが現れた人たちの名前を挙げ、ケファ(ペトロ)に始まり、十二人の弟子、五百人以上もの兄弟たち、次いでヤコブ、すべての使徒、そして最後に「月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と記している(参照:コリント15,5-8)。

教皇はこの表現に、キリスト教徒に対する確信的な迫害者だったパウロが、ダマスコへの途上で復活のイエスに出会うという思いがけない体験を通して、全く違う人生の意味を発見した、その激的なパウロ個人の歴史を振り返られた。

キリストはわたしたちを捉え、つかみ、離れないよう引寄せると述べた教皇は、キリスト教は恵みであると同時に驚きであるがゆえに、閉じた心、驚くことのない合理的な心には、キリスト教を理解することはできないと語られた。

「わたしたちは皆罪びとであり、人生に多くの失敗があるでしょう。しかし、復活祭の朝、わたしたちは福音書の人々のようにキリストの墓に行き、大きな石が転がされているのを見て、神はわたしに、わたしたち皆に、思いがけない未来を用意してくださっているのだと思うことができます。ただ悲しみと敗北と闇があると思っていた場所に、幸福と、喜び、命を見出すことができるのです」

教皇はこのように説き、「わたしたちの微笑と忍耐強い分かち合いの理由は、イエスはまだここに、わたしたちの間に生きておられるからです」と話された。








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