2017-04-16 10:49:00

「復活した主の鼓動を、皆に伝えに行こう」教皇、復活徹夜祭で


カトリック教会の典礼暦は、4月16日(日)、「主の復活」の大祝日を迎えた。

教皇フランシスコは、聖土曜日4月15日の夜、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「復活の聖なる徹夜祭」をとり行われた。

復活徹夜祭は、キリストの復活を象徴する光の祭儀から始まり、み言葉の祭儀、洗礼式、感謝の典礼と続く、荘厳でキリスト教的シンボルにあふれた典礼である。

復活徹夜祭を特徴付ける「光の祭儀」では、大聖堂の入り口で教皇による復活の大ろうそくの祝別が行われた。

助祭が掲げる復活の大ろうそくを先頭に、明りを消した大聖堂の中を、教皇や聖職者、信徒らの代表が入場。

最初に「キリストの光」と歌われる中、大ろうそくから、まず教皇の持つろうそくに火がともされた。

2度目の「キリストの光」が朗唱されると、教皇のろうそくから、入祭行列者のろうそくへ、そして、すべての参列者のろうそくへと、次々に火が灯され、聖堂内は次第に光で満たされていった。

やがて3度目の「キリストの光」が歌われ、聖堂全体に明りが灯された。

続いて、助祭が復活賛歌を朗唱。参列者は、復活の主の世の闇に対する輝ける勝利の知らせに耳を傾けた。

また、復活徹夜祭のもう一つの伝統である洗礼式では、国籍も様々な11人の成人が教皇から洗礼を受けた。

教皇フランシスコは、この復活徹夜祭の説教で次のように話された。

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「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」(マタイ28,1)。
彼女たちの歩く様子が想像できるでしょう。墓場に向かう人たちが持つ歩み、頭が混乱し、疲れきった、すべてがこういう形で終わってしまったことに納得がいかない人の意気消沈した歩みです。彼女たちの青白く涙にぬれた顔が見えるようです。わたしたちはここで問うのです。愛が死ぬということが、一体ありうるのかと。

弟子たちと違い、彼女たちはそこにいました。師の十字架上での最後を見届け、イエスを埋葬するアリマタヤのヨセフに付き添ったように、二人の婦人は逃げずに持ちこたえ、ありのままの人生と向き合い、不当な出来事の苦い味に耐えることができました。そして今、彼女たちは墓の前に立ち、苦しみと、こんな風にすべてが終わってはいけないという、諦めきれない気持ちの板挟みになっていました。

もし、わたしたちが想像力を働かせるならば、彼女たちの顔に、多くの非人道的な不正の重みと苦しみに耐える、大勢の母や祖母の顔、子どもや若者の顔を見いだすことができるでしょう。彼女たちの顔に、街を歩きながら感じる、貧困の苦しみ、搾取され売買される人々の苦しみが映し出されているのを見るでしょう。また、そこに、移民として、祖国、家、家族を持たないゆえに侮蔑を受ける人々の顔を見、しわだらけの手を持ち、孤独で見捨てられた人々の眼差しと出会うでしょう。自分の子どもたちが腐敗の重みに押しつぶされ、権利を取り上げられ、多くの希望が粉々になるのを見て、また、生活の中のエゴイズムが多くの人の希望を十字架につけ葬り去り、麻痺した不毛な形式主義が物事の変化を許さないことを見て泣く母たちの顔を見るでしょう。二人の婦人の苦しみの中に、街を歩きながら、尊厳を十字架につけられた人たちの顔を見るのです。

この二人の女性の顔の中には、多くの人たちの顔があり、そこにはあなたの顔、わたしの顔もあるかもしれません。彼女たちのように、わたしたちもまた、物事がこのように終わっていいはずがないと、歩みを促される気がします。そうです、わたしたちは心に神の忠実さに対する期待と確信を持っています。一方で、わたしたちの顔は、傷や、不忠実、虚しい試みや、諦めを物語っています。物事はもっと違う形にすることができるはずだと知っていても、わたしたちの心は、大抵は無意識のうちに、墓場や欲求不満との共存に慣れてしまいます。さらにはこれが人生というものだと、自己を納得させるに至り、自分を麻痺させる様々な気晴らしを通して、神がわたしたちの手に握らせた希望をますます消耗させてしまうのです。多くの場合、わたしたちの歩みはこのようなものです。この二人の婦人のように、神に対する願望と悲しい諦めの間を歩いています。死ぬのは師だけではありません。師と一緒に、わたしたちの希望も死ぬのです。

「すると、大きな地震が起こった」(マタイ28,2)。突然、二人の婦人は強い揺れを、何かが、誰かが、彼女たちの足元を揺らすのを感じました。主の天使は婦人たちに「恐れることはない」と言い、さらに「あの方はかねて言われていたとおり、復活なさったのだ」 (マタイ28,6)と告げました。この知らせは、何世代にもわたって、聖なる夜がわたしたちに贈ってくれるものです。「兄弟たち、恐れることはない。あの方はかねて言われていたとおり、復活なさったのだ!」十字架上で引き裂かれ、壊され、殺されたあの命は、再び目覚め、鼓動し始めました( 参考:ロマーノ・グァルディーニ『イル・シニョーレ』ミラノ 1984, 501)。復活の主の鼓動は、わたしたちに恵み、贈り物、新しい水平線として差し出されました。復活の主の鼓動は、わたしたちに与えられると同時に、それを変化の力、新しい人類のパン種として、わたしたちもまた他人に与えるようにと招いています。

復活を通して、キリストは墓石をはねのけただけではありません。不毛な悲観主義や、生活とかけ離れた計算だけでできた抽象的世界、自分の安全の確保の飽くなき追求、他人の尊厳までをも犠牲にしかねない果てしない野望など、わたしたちを閉じ込めるすべての囲いをもはねのけたいと願っておられるのです。

ローマ人たちと共謀した大祭司や長老たちが、すべては計算可能だと、物事の決着をつけるのはいつも自分たちだと信じた時、神が介入し、すべての決まりをひっくり返し、新しい可能性を与えます。神は再び新しい時を制定し固めるために、わたしたちのもとに来られます。その新しい時とは、いつくしみの時です。これは忠実な民のために、神から常に約束されたもの、差し出される驚きです。喜びなさい、あなたの命には復活の芽が隠されています。それは目覚めを待つ命の贈り物です。

これが、この夜、わたしたちに告げるようにと召されたことです。復活の主の鼓動、キリストは生きておられる!これがマグダラのマリアともう一人のマリアの歩みを変えました。これが婦人たちを急いで墓から立ち去らせ、それを告げるために走らせたのです(参考:マタイ28,8)。これが婦人たちの歩みと眼差しを取り戻させ、彼女らは他の弟子たちに会うために町に戻りました。

わたしたちも彼女たちと一緒に墓に入り、彼女たちと一緒に町に帰り、自分たちの歩みと眼差しを取り戻すよう、皆さんに呼びかけたいと思います。彼女たちと一緒にこの知らせを告げに行きましょう。墓がすべての終わり、死だけが最後の答えと思われるすべての場所に行きましょう。告げ、分かち合い、真理を明らかにするために行きましょう。主は生きておられる!主は生きておられ、希望や夢や尊厳を葬った多くの人たちの顔を再び上げさせたいと望んでおられます。わたしたちが聖霊にこの道を導かれるのを拒むなら、わたしたちはキリスト者とは言えません。

行きましょう。このいつもと違う夜明けに目を見張り、キリストだけが与えることのできる新しいものに驚きましょう。キリストの優しさと愛に、わたしたちの歩みを励まされ、キリストの心臓の鼓動に、わたしたちの弱い鼓動を変えていただきましょう。

 








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