2017-03-01 18:22:00

「四旬節は希望の歩み」教皇、一般謁見で


教皇フランシスコは、バチカンで3月1日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

カトリック教会の典礼暦は、この日「灰の水曜日」を記念すると共に、復活祭前の準備期間「四旬節」に入った。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「キリスト教的希望」をテーマに考察を続ける教皇は、この四旬節を「希望の歩み」と位置づけ講話を行われた。

教皇は復活祭前に設けられた四旬節を、過ぎ越しの神秘から光を得ながら、復活のイエスへと向かう、40日間の歩みとして示された。

そして、ここでは復活の主が、わたしたちに闇から出て、主の方へ、光の方へ歩むように招いておられると述べられた。

四旬節は回心と悔い改めの時であるが、それ自体を目的とせず、わたしたちをキリストと共に生き返らせ、洗礼の意味を新たにし、天から、神の愛から来る再生を目指すという意味で「希望の時」であると教皇は話された。

教皇は、旧約聖書の「出エジプト記」で、神がモーセを召され、彼にエジプトの隷属にあったイスラエルの民を率させ、砂漠を渡り、自由の地へと導いたことを思い起こされた。

このエジプト脱出の旅は長く試練に満ち、人々は苦難の中でエジプトの奴隷時代を懐かしみさえしたが、忠実である神は民を約束の地に導いた。教皇はこれらの歩みが隷属から解放への希望の中で行われたことを指摘。

一つ一つの歩み、努力、試練、失敗、立ち直り、こうしたすべてが神の救いの御計画の中でのみ意味を持ち、神はご自分の民に死ではなく命を、苦しみではなく喜びを望まれたと話された。

イエスの過ぎ越しは、イエスご自身の「出エジプト」であり、これを通してイエスは満ち満てる永遠の至福の命への道を開いたと教皇は述べつつ、この道を開くために、イエスがその栄光を脱ぎ捨て、十字架上の死に至るまでの謙遜と従順を示され、ご自分のすべてを犠牲にされたことを忘れないよう招かれた。

教皇は、わたしたちはイエスの犠牲のおかげで罪への隷属から救われたが、それは「イエスがすべてしてくださったので、自分たちはもう何もしなくてよい。イエスは十字架を経て過ぎ越されたが、わたしたちは馬車で天国に行こう」ということではないと注意。

わたしたちの救いは確かにイエスの賜物であるが、これが愛のストーリーである限り、わたしたちも、母マリアやすべての聖人たちのように、その愛に答えて「はい」と答え、その愛に参与しなければならないと説かれた。

「キリストはその過ぎ越しを通して、わたしたちに先立ち、わたしたちはキリストのおかげで、その後を付いて砂漠を渡る」

「キリストはわたしたちのために罪の誘惑に会われ、キリストはわたしたちのために誘惑者に勝利されたが、わたしたちもまたキリストと共に、誘惑と対峙し、それを克服しなくてはならない」

教皇はこのように述べ、信者らに四旬節の心構えを説かれた。








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