教皇フランシスコは、バチカンで1月4日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
謁見中、教皇はキリスト教的希望をめぐるカテケーシス(教会の教えの解説)として、「涙の中で生きる希望」について講話された。
教皇は、旧約聖書・エレミヤ書31章15節を引用。エレミヤは、捕囚にあったイスラエルの民に向けた言葉の中で、「創世記」の登場人物、ラケルの涙を想起している。
「創世記」の中で、ラバンの娘ラケルは、ヤコブ(イサクの息子、アブラハムの孫)の妻となり、ヨセフとベニヤミンを生んだ。第2子のベニヤミンを産んだ際、難産のために亡くなった。
エレミヤ書では、ラケルはイスラエル民族の女性の開祖として思い起こされている。自分の子に生命を与えるために死んだラケルは、ここでは預言者エレミヤによって、捕囚民たちが集うラマで生きる存在のように表現され、流刑によって、ある意味、永遠にいなくなってしまったイスラエルの息子たちのために嘆き悲しむ母として描かれている。
「主はこういわれる。
ラマで声が聞こえる
苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
彼女は慰めを拒む
息子たちはもういないのだから』(エレミヤ書31,15)
ここでラケルは慰めをも拒んでいる。この拒否を、その苦しみの深さと嘆きの苦さを表すものとして見つめられた教皇は、今日も、またどの時代、どの場所でも、子を失った母にとって、その死を受け入れるのは難しく、その悲しみは慰めようがないものであると話された。
慰めを拒むラケルの姿は、苦しむ人の前では非常な繊細さが必要とされることをわたしたちに教えると教皇は述べ、絶望した人に希望を語るには、その絶望を分かち合い、その人と共に泣かなければならないと説かれた。
エレミヤは、神がその繊細さと愛をもってラケルの涙に答えられる様子を述べる。
「主はこういわれる。
泣き止むが良い。
目から涙をぬぐいなさい。
あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。
息子たちは敵の国から帰ってくる。
あなたの未来には希望がある、と主はいわれる。
息子たちは自分の国に帰ってくる」(エレミヤ書31,16-17)
ラケルの苦い涙に、主は彼女の真の慰めの理由となることを約束される。それは民が捕囚から戻り、信仰と、自由、神との絆を生きるようになるだろうという約束であり、こうしてラケルの涙は希望を生むことになったと、教皇は話された。
教皇はエレミヤ書のラケルの嘆きは、マタイ福音書の中で、ヘロデが幼子イエスを殺すことを試み、ベツレヘム一帯の子どもたちを皆殺しにしたエピソード(マタイ2,16-18)で引用されていることを指摘。
ベツレヘムの子どもたちはイエスのために殺され、そして、そのイエスはやがて、わたしたち皆のために命を捧げることになった。神の御子は人々の苦しみの中に入られ、それを分かち合い、死を受け入れられたと説かれた。
十字架上で、御子は死を前に、その母マリアを弟子ヨハネに託し、すべての信者の母とすることで、新たな子たちをマリアに授けたと述べた教皇は、「イエスは死に打ち勝ち、エレミヤの預言は成就した。マリアの涙もまた、ラケルの涙のように、希望と新しい命を生み出すことになった」と観想された。
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