2016-12-07 13:40:00

「希望」をテーマに新しいカテケーシス、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで12月7日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、先週「いつくしみ」をめぐる一連の考察を終えられた教皇は、この日から「キリスト教的希望」をテーマに新たなシリーズを始められた。

希望はとても大切なものと述べた教皇は、楽観には失望が訪れるかもしれないが、キリスト教的希望は失望することがないと強調。

わたしたちを取り囲む悪と暴力、多くの人々の苦しみを前に動揺し、無力に感じるこの暗い時代において、希望は大いに必要とされていると話された。

「希望を捨ててはいけない。神はその愛をもって、わたしたちと一緒に歩いておられる」

「すべての人が、『わたしは希望を持っている。なぜなら神がそばについておられるから』と、言うことができる」

と教皇は説かれた。

降誕祭を準備する「待降節」にある今、教皇は、神の御子の受肉の慰めに満ちた神秘を受け入れ、「希望を持つ」とはどういうことかを主に教えていただくよう招かれた。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」(イザヤ40,1)。

教皇は神の慰めを告げるイザヤ福音書の一節(40,1-2.3-5)を引用。

御父は、苦しみの時は終わり、罪は償われたと、民を励ますよう願われ、そのため預言者イザヤは、神の救いの賜物を受け入れるために、「主の道を整えるよう」、すなわち、救いと解放の歩みに備えて、あらゆるつまづきとなるものを取り除き、道をまっすぐにするよう呼びかけている、と教皇は説明された。

「イスラエルの民にとって流浪は、その歴史における悲劇的な時代であり、民は祖国も、自由、尊厳、そして神への信頼をも失なっていたが、イザヤの呼びかけは人々の心を再び信仰に開き、荒れ野は今や祖国のみならず、神のもとに帰るために歩む地となった」

「人生は時に荒れ野のようであり、そこを歩むことは難しいが、わたしたちが神に信頼するならば、その道は広く素晴らしいものとなる。希望を失わず、すべてに関わらず、信じ続けるだけで十分である」

このように教皇は話された。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」(マタイ 3,3)。

洗礼者ヨハネは、まさにイザヤの言葉をもって、人々に回心を呼びかけたが、その声は信仰の危機に見舞われた荒れ野の中で、誰も聞くことのない叫びのようであった、と教皇は観想。

しかし、真の歴史は、権力者たちではなく、神と、神と共にいる小さき人々によって作られたのであり、その小さき人々とは、降誕するイエスの周りにいた人々、子どもに恵まれないザカリヤとエリザベトの老夫婦、おとめマリアと若い浄配ヨセフ、卑しい存在であると思われていた羊飼いたちのような、小さくても大きな信仰を抱き、希望を持ち続けることのできる人たちであったと話された。

教皇は、希望に学びながら、主の訪れを信頼をもって待ち、わたしたちの生きる荒れ野がどのようなものであろうとも、それが花園となることを望み続けようと呼びかけられた。

 

              








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