2016-10-17 19:15:00

バチカンで列聖式:7人の新しい聖人を祝う


10月16日、バチカンで「いつくしみの聖年」の行事として、列聖式がとり行われた。

教皇フランシスコは、聖ペトロ広場で司式したミサの中で、7人の福者を新しく聖人の列に加えられた。

このミサには、フランスやイタリア、スペイン、またメキシコやアルゼンチンなど、新聖人にゆかりのある国々からの巡礼団を中心に、多くの信者らが詰め掛け、列聖の喜びを分かち合った。

この日、聖人として宣言された人々は以下のとおり。

・サロモン・レクレール(フランス1745‐1792、修道者・殉教者)
本名:グリエルモ・ニコラス・ルドヴィコ。ラ・サール会(キリスト教学校修士会)の一員として青少年の教育と教師の育成に尽力、同会の発展に寄与した。フランス革命の中、会の解散を余儀なくされたが、将来の会の活動を守るために指導部が置かれた家に残った。1792年、逮捕され、国民議会が定めた聖職者基本法への忠誠を拒否し、殉教した。

・ホセ・サンチェス・デル・リオ(メキシコ1913-1928、信徒・殉教者)
1926年から始まった政府による宗教的迫害に対し、それに抵抗する信者たちの運動に兄弟たちと参加。1928年、逮捕され、拷問されたが、棄教を拒み、14歳の若さで殉教した。

・マヌエル・ゴンザレス・ガルシア(スペイン1877-1940、司教)
1901年、司祭叙階。1916年、司教叙階。ウエルバ、マラガ、ジブラルタル、マドリッドの各教区で「善き牧者」として生涯を捧げた。聖体のイエスを深く観想し、裏切られ、拒否されたイエスの悲しみを償うという霊性のもと、贖罪聖体会の諸組織とナザレの聖体宣教女会を創立した。

・ロドヴィコ・パヴォーニ(イタリア1784-1849、司祭)
1807年、司祭叙階。青少年の教育に情熱を注ぎ、貧しい子どもたちに教育と、仕事、信仰を与えた。勉学だけではなく、仕事の作業をも教育の場とするその教育法は、革新的なものであった。疫病流行時には親を失った子どもたちを保護し、聴覚障害者の学校を創設。さらに、無原罪の聖母修道会を創立した。1849年3月、ブレーシャで、オーストリアの支配に対する市民の反乱(「ブレーシャの10日間」)が始まった翌日、子どもたちを混乱と暴力から守るため、雨の中を奔走し、それが原因で肺炎となり、数日後死去した。

・アルフォンソ・マリア・フスコ(イタリア1839-1910、司祭)
1863年、司祭叙階。身寄りがなく、恵まれない子供たちのキリスト教的育成に励み、教育の機会を与えた。また、女性の教育の必要性を理解し、若い女性たちの教育に配慮。自立の手助けをすることで、女性の尊厳の向上に寄与した。福音宣教と貧しい青少年の教育を目的とする、洗礼者聖ヨハネ修道女会を創立した。

・ホセ・ガブリエル・デル・ロサリオ・ブロチェロ(アルゼンチン1840-1914、司祭)
1866年、司祭叙階。コルドバの広大な地帯の司牧を託され、道も学校もなく、貧しい村々を精力的に回った。行く先々で住民を励まし、教会や学校を作ることで、道や鉄道、郵便局などを地域にもたらすことに貢献。黙想の家を作り、信者たちの霊的指導に務めた。病者を訪問する中、自ら疫病にかかり、小教区の活動から引退したが、要望を受けて再び信者たちのもとに戻り、そこで帰天した。

・三位一体のエリザベト(フランス1880-1906、修道女)
本名:エリザベト・カテー。幼少に父を亡くし、母に育てられた。1891年、初聖体の日から、「愛のために」自らの気性に打ち勝つ闘いを始めた。キリストとの霊的親密さを深めるうちに、1894年、私的な誓願を立てた。ピアノの名手であり、明るく、教会や社会の活動に活発であったが、ディジョンのカルメル会に入会するために母の理解を待った。1901年、同会に入会、三位一体のエリザベトの修道名を授かった。至聖三位一体を深く観想し、聖母に倣い、生ける神の存在を守り、十字架のイエスの大きすぎる愛に思いをはせ、毎日を主の御旨のために捧げた。アジソン病のため、26歳で帰天した。

 

 

 








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