2016-08-18 19:02:00

人々の間でキリストのいつくしみを伝える、教皇一般謁見


教皇フランシスコは、8月17日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中、教皇はいつくしみをテーマにしたカテケーシス(教会の教えの解説)を続けながら、マタイ福音書の、イエスが五千人に食べ物を与える奇跡(14,13-21)を取り上げられた。

イエスは洗礼者ヨハネが殺された知らせを受けると、舟に乗り、「人里はなれた所に退かれた」(14,13)。

しかし、群集はあちらこちらから徒歩で、そのイエスの後を追った。「イエスは、舟から上がり、大勢の群集を見て深く憐れみ、その中の病人を癒された」(14,14)。

どこまでもイエスを追っていく群集の姿は大変印象的であると述べた教皇は、大きなカリスマを持つ預言者であった洗礼者ヨハネの亡き後、人々はイエスに自分たちを託し、イエスから見捨てられることを恐れているようであったと話された。

イエスがこれらの人たちを見て深く心を動かされたように、イエスは冷たい心ではなく、感動できる心を持っていたと教皇は語られた。

イエスはこれらの群集と結ばれていると感じる一方で、一人で御父に祈る時間をも必要としていた。しかし、イエスはこの時も人々のために奉仕され、その憐れみが単なる曖昧な感情ではなく、わたしたちのそばにいて、わたしたちを救いたいという強い意志であることを示されたと教皇は指摘された。

夕暮れになり、イエスはこれらすべての群集にどのように食べさせるかを心配されたが、弟子たちがこれに関わることを望まれた。そこでイエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい」(14,16)と言われた。

イエスは弟子たちが持っていたパン五つと魚二匹を取り、信仰と祈りの力によって、それらがすべての人に行き渡るようにされた。そしてイエスはパンを裂いて弟子たちに渡し、弟子たちはそのパンを群集に与えた(14,19)。

この場面を観想された教皇は、主は一人ひとりの人間が具体的に必要とするものをお知りになり、一人ひとりにその憐れみに預からせることを望まれると話された。

教皇はイエスがパンと魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡す様子を、イエスの最後の晩餐での行為と重ねながら、今日もこの同じ行為がミサの中で司祭たちによって繰り返され、キリスト教共同体はこの聖体祭儀を通して常に新たに生まれ続けると説かれた。

キリストとの交わりを生きるとは、日常生活の中で受身に生きることではなく、現代の人々の間に積極的に入っていき、キリストのいつくしみと思いやりを具体的なしるしをもって伝えることであると述べた教皇は、聖体を通して、わたしたちもまたキリストのからだ、兄弟たちのための霊的な食べ物として、少しずつ変容されていくことができるようにと願われた。

 








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