2016-06-01 14:36:00

「謙遜な祈りは、神の心を開く」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで6月1日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は「謙遜な祈りはいつくしみを得る」をテーマに、ルカ福音書の「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ(18,9-14)を観想。神のいつくしみを祈り求めるには、どのような態度をとるべきかを考えた。

このたとえ話では、2人の人が祈るために神殿に上る。一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人であった。

教皇は、2人の祈りにおける対照的な態度、それぞれの祈りがもたらす異なる結果を見つめられた。

ファリサイ派の人は「立って」、多くの言葉をもって祈った。それは神への感謝の祈りではあったが、実際には自分自身を誇示・賛美し、「泥棒、不正な者、姦通を犯す者」や、そこにいた「徴税人」など、「ほかの人たち」を見下すことで、優越感にひたるものであった。

教皇は、問題は、このファリサイ派の人が神に祈りながらも、目の前の神に眼差しを向けず、自分自身だけを見ていることにあると指摘。

彼は自分を正しいと思い込み、自分の良い行いを数え上げるだけで、最も重要な掟、すなわち神と隣人への愛をないがしろにしていると話された。

教皇は、祈る時には、どれだけ祈るかだけでなく、いかに祈るかが大切であり、その際、自分の考えや思いなど、心の状態を見極め、傲慢さや偽善を完全になくさなければならないと述べられた。

「わたしたちは皆、目まぐるしい日常の中で疲れて混乱しているが、心に向かって歩み、内面的な世界と沈黙の価値を再び見出すことが必要である。なぜなら神はそこでわたしたちと出会い、話しかけられるからである」と教皇は説かれた。

そして、ファリサイ派の人について、「彼は神殿に向かって歩んだが、心の道を間違えたことには気がつかなかった」と指摘された。

これに対し、もう一人の人、徴税人は、謙遜で悔い改めの心をもって神殿を訪れた。彼は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った」(ルカ18,13)。

「神様、罪びとのわたしを憐れんでください」。ファリサイ派の人に比べ、彼の祈りは大変短いものであることに教皇は注目。

徴税人の悔い改めの態度と、単純でわずかな言葉は、彼自身の惨めさを自覚する、本質的な祈りであり、それは謙遜のもとに、自分が神の憐れみを必要とする罪びとであることだけを確信するものと話された。

すべてを持っていたファリサイ派の人は神に何も願わなかったが、徴税人はただ神の慈しみだけを乞うことができた。空の手、飾らない心で、罪びとという自覚を持って神の前に出る徴税人は、わたしたちが神の赦しを得るために必要な条件を示していると教皇は話された。

イエスは一つの裁きをもって、このたとえ話を締めくくっている。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(同18,14)。

自分を正しいと信じ、他の人を裁き、見下す者は偽善者であり、その傲慢はすべての良い業を傷つけ、祈りを虚しくし、神や隣人から遠ざけてしまうと教皇は述べ、謙遜こそは、神がその人を立ち上がらせ、空の心をいつくしみで満たしてくれる条件であると説かれた。

「高慢な人の祈りは神の心に届かない。謙遜な心を前に、神はその心を完全に開かれる」と述べた教皇は、わたしたちがいつも謙虚に祈れるよう聖母の取次ぎを願われた。








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