2016-04-13 18:47:00

「イエスと同じ食卓に招かれ、癒される」教皇一般謁見


教皇フランシスコは、バチカンで4月13日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

この席で教皇は、16日(土)に行なわれるギリシャ・レスボス島訪問に言及。

正教会のコンスタンティノポリ総主教・バルソロメオス1世と、アテネおよび全ギリシャ大主教のイエロニモス2世と共に、多くの難民たちの中継地となっているレスボス島に赴き、難民たちはもとより、同島の住民や支援において寛大なギリシャ国民に連帯を示したいと述べつつ、この訪問のための祈りを信者らに願われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)では、神のいつくしみをテーマに、マタイ福音書の「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい(9,13)」というイエスの言葉をめぐり講話を行われた。

イエスは収税所に座っていたマタイに対し、ご自分に従うようにと言い、弟子にされた。マタイの家でイエスが他の弟子たちと共に食事をしていると、ファリサイ派の人々は、なぜイエスは徴税人や罪びとたちと一緒に食事をするのかと議論を吹きかけた。

実際、イエスはこうした人たちを遠ざけず、むしろ彼らの家を訪ね、食卓を共にしたが、それは彼らもまたイエスの弟子になれるということを意味していた。マタイに弟子として招くことで、イエスは罪びとたちに対し、彼らの過去や社会的立場を問わないことを示し、彼らに新しい未来を開くことを望まれたと教皇は話された。

自分は正しい人間であると思い込み、他人を見下している人々にとって、イエスの行為は理解できないものであった。にもかかわらず、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」(マタイ9,12)とイエスが言うように、イエスの使命は、わたしたち一人ひとりを探し、傷を癒し、ご自分に従うようにと愛をもって招くことであると教皇は強調。

罪びとたちをご自分の食卓に招きながら、イエスは彼らを癒し、人々が諦め、ファリサイ派の人たちが忘れてしまったこと、すなわち「神の食卓に招かれる」というすべての人の召命を取り戻させたと話された。

ファリサイ派の人々が罪びとたちと一緒に座ることを拒否するのに対し、イエスは彼らもまた神の食卓を共にする人々であることを思い出させた。イエスと同じ食卓に着くことは、イエスによって変えられ、救われることと述べた教皇は、キリスト者はみことばと聖体という2つの薬によって、神なる医者から癒され、養われると説かれた。

イエスはファリサイ派の人々に対し、ホセア書(参考:6,6)の『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉を思い出させた。

教皇は、イエスがホセア書の言葉を人々に対する態度において表したことに対し、ファリサイ派の人々は憐れみを第一とせず、罪びととの同席を拒み、律法を守る者たちでありながら、神の御心を知らなかったと指摘された。

「わたしたちは皆、主の食卓に招かれています」と述べた教皇は、わたしたちも招きに応えて主の隣に弟子たちと一緒に座り、同席の一人ひとりをいつくしみをもって見つめることができるようにと祈られた。








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