2016-03-21 14:46:00

受難の主日:教皇「イエスが十字架上で示す神のいつくしみの御顔」


カトリック教会の典礼暦で「受難の主日」を迎えた3月20日、教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ広場でミサを捧げられた。

「枝の主日」とも呼ばれる「受難の主日」は、復活祭直前の日曜日で、キリストの受難を記念する「聖週間」の第一日目。

イエスのエルサレム入城を祝うこの日は、民衆が歓呼のうちにイエスを迎え、その足元に服や木の枝を敷いたという福音書の記述を思い起こし、ミサの前にオリーブや棕櫚(しゅろ)の枝を持って宗教行列が行なわれる。

また、この日はカトリック教会の「世界青年の日」(教区レベル)が記念されたことから、教皇ミサにはローマ教区の若者たちが多く参加した。

ミサの始めに、教皇は聖ペトロ広場のオベリスク前で、聖職者、修道者、信者の各代表が手にする枝を聖水で祝別された。そして、人々は教皇と共に、枝を掲げつつ、大聖堂前に設けられた祭壇まで厳かに行列した。

ミサ中の福音朗読では、ルカ福音書のイエスの最後の晩餐からその受難までが朗読された。

説教で教皇は、エルサレムに入ったイエスが群集に歓呼をもって迎えられる姿を観想。子ろばに乗って、謙遜に「主の名によって」来られるイエスは、わたしたちの町にも、わたしたちの生活の中にも同じように入り、その愛の力によってわたしたちの罪を赦し、神と和解させることを望まれていると話された。

しかし、受難の主日の典礼が表すように、主は凱旋的な訪れや強力な奇跡によってわたしたちを救うのではなく、「自分を無にして」「へりくだる」ことを通してわたしたちを贖われたと教皇は強調。

イエスは最後の晩餐で弟子たちの足を自ら洗ったが、そのへりくだりはまだ始まりにすぎず、イエスはその受難を通して、金と交換に売られ、友と呼んだ弟子に裏切られ、弟子たちに逃亡され、否定され、侮辱、暴力、不当な裁きを受け、大犯罪人のように十字架につけられるという究極のへりくだりを体験されたと、その十字架に向かう道のりを振り返られた。

最初は歓声で迎えたにも関わらず、今は誰もその運命に対して責任をとろうとしない人々の無関心をもイエスは肌で感じられたと述べた教皇は、多くの人から無関心を示される疎外された人や難民たちの存在を思い起こされた。

孤独と侮辱と苦しみだけでは足りず、イエスは十字架の上で自分を無にする最大の体験として、御父から見放されるかのような神秘を体験したが、そのような中でも「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ 23,46)と言ったイエスの御父への信頼を教皇は見つめられた。

「他人を救ったのだから、自分自身を救うがよい」という嘲りを前に、イエスが悪に勝ち、力ある神の真の御顔を見せられたのは、その「いつくしみ」においてであったと教皇は説き、回心した犯罪人の一人に天国の扉を開き、百人隊長の心に触れたイエスのいつくしみを皆に示された。








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