2016-02-01 15:11:00

教皇と奉献生活者たちとの集い「従順を守り、人々に寄添い、祈る生き方」


教皇フランシスコは、2月1日、バチカンで奉献生活者たちとお会いになった。

カトリック教会は、第2バチカン公会議の公文書「修道生活の刷新・適応に関する教令」発布(1965年10月28日)から50年を機に、2014年11月30日から、2016年2月2日「主の奉献」の日まで「奉献生活の年」を記念した。

「奉献生活の年」の締めくくりとして、ローマで1月28日から2月2日まで、祈りや黙想、発表や対話を通し、奉献生活者間の分かち合いをはかる国際大会が開かれた。

「奉献生活の年」終了の前日、大会参加者らはバチカンのパウロ6世ホールで教皇との出会いを持った。

この集いで、教皇は用意した原稿を使用せず、奉献生活者らに親しみを込めて話しかけられた。

講話中、教皇は、奉献生活をおくる上で重要な3つの柱として、「預言性」「寄添い」「希望」を挙げられた。

主に仕えるために自らを奉献した者たちの、「清貧」「貞潔」「従順」の道について触れた教皇は、わたしたちのこの「従順」にはいつも何かが足りない、それは十字架の死に至るまで従順であった神の御子の完璧な従順ではないだろうかと自問された。

そして、この従順こそが、奉献生活者に求められる「預言性」であり、自分のしたいことや自分のやり方があっても、対話を経た後に、最後は長上に従うことが、共同体内の「無政府主義」を防ぐための預言・啓示となると説かれた。

神の御子は無政府主義者ではなく、弟子たちを敵対する者らと戦わせることはしなかったと教皇は述べ、受難を前に「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と言った、御父へのその完全な従順を思い起こされた。

預言性とはまた、何かもっと真実で、美しく、善いものがあると人々に告げることであり、そのためにわたしたちは召されていると教皇は話された。

「寄添うこと」について教皇は、奉献生活者が人々から離れ、安楽な生活に陥ることがないようにと警告。

奉献生活者はキリスト者や、そうでない人々の苦しみや困難を知り、彼らの隣人となる必要があると述べられた。

では、禁域の中で生活する観想修道者はどうしたらよいのかと問いながら、教皇は祈りによって人々や宣教者に寄添ったリジューの聖テレーズの生き方を示された。

奉献生活者になることは、社会の階段を上がることや、社会的なステータスを得ることではないと述べ、教皇は人々に物理的・精神的に寄添う生き方を修道者らに願われた。

隣人に寄添うとは、外に出て貧しい地区を訪問することだけではないと教皇は注意を促し、自分の共同体のお年寄りたちを訪問したことはあるだろうか、一番の隣人は自分の共同体・修道院の兄弟姉妹たちであることを忘れてはならないと説かれた。

さらに、共同体の中で大切なのは、噂話をしないことであると教皇は強調。噂話は、共同体を破壊してしまう、これは寄添いとは言えないと話された。

「希望」をめぐり、教皇は多くの修道院・共同体で見られる志願者の減少について言及。志願者の不足で共同体が次第に年老いていくことへの心配を共有された。

しかし、このような状況においても、人工的に志願者を増やすために、誰でも容易に受け入れてしまうことは避けなければない、問題を抱えないためにも、志願者の見極めには慎重であるべきと教皇は助言。

希望を失いそうな誘惑に対しては、疲れを知らず祈り続けることだと教皇は述べ、サムエルの母ハンナが、子どもを授けてくださいと祈った時の、酔っているのではないかと祭司に誤解されたほどの、あの熱心な祈りが必要と話された。

教皇は、召命の恵みをなかなか得られない修道会の陥りがちな問題として、高齢化に伴う経済的心配からの金銭への執着を挙げられた。教皇はこれに対し、お金は決して希望をもたらさない、希望は主の中だけにあると励まされた。

典礼暦で「主の奉献」を祝う翌2月2日、「第20回世界奉献生活者の日」を迎えると共に、「奉献生活の年」は終了する。この日、「奉献生活の年」の閉幕と、現在進行中の「いつくしみの聖年」における「奉献生活者の聖年」を記念し、教皇フランシスコによってミサが捧げられる。








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