2015-12-14 14:44:00

ラテランの聖ヨハネ大聖堂の聖年の扉開く、教皇「いつくしみの道具に」


教皇フランシスコは、12月12日、ローマのラテランの聖ヨハネ大聖堂の「聖年の扉」を開かれた。

「いつくしみの聖年」が12月8日の無原罪の聖母の大祝日に開幕してから一週間、教皇はこの朝、ローマの司教座聖堂、ラテランの聖ヨハネ大聖堂(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ)でミサを捧げられた。

ミサ開始前に行われた「聖年の扉」開門儀式で、教皇は祈りの後、重いブロンズの扉を押して開き、敷居の上で、再び祈りを捧げられた。

教皇を最初に、ミサに参加する聖職者、修道者、信徒代表らが次々扉をくぐり、入祭の行列を形作りながら祭壇に向かった。

待降節第3主日、「主にあっていつも喜べ」と入祭で歌うこの日は、「喜びの日曜日」と呼ばれ、第1朗読では「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ」(ゼファニヤ3,14-17)、第2朗読では「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4,4-7)と、「喜び」への招きが繰り返される。

教皇は、間もなく祝う降誕祭を前に、たとえ多くの不安を持っていても、人類を傷つける様々な形の暴力を前にしても、疲れや悲しみにとらわれていることはできない、主の訪れはわたしたちの心を喜びで満たさなくてはならないと話された。

聖ヨハネ大聖堂と同様、世界各地でも司教座聖堂の「聖年の扉」が開けられていることに教皇は言及。

扉を開くという単純な行為は、喜びへの招きであり、今ここに始まった「いつくしみの聖年」は、「偉大な赦しの時」、「神の現存と父としてのその優しさを再び見出す時」と述べられた。

教皇は、「聖年の扉」をくぐるわたしたちは、いつくしみの道具となるように招かれている、それは洗礼を受けた人の大きな務めと強調。

キリストにおける信仰は生涯続く歩みを生む、それは「御父のようにいつくしみ深い者となる」ための歩みであると説かれた。

この日、ローマにおける教皇直属バシリカの一つ、城壁外の聖パウロ大聖堂でも、同聖堂首席司祭ジェームス・ハーヴェイ枢機卿によって、聖年の門が開かれた。

一方、ローマの聖マリア大聖堂では、1月1日の「神の母聖マリア」の大祝日に、同様の儀式がとり行われる。

 








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