2015-08-03 17:25:00

イエスは命のパン、教皇、日曜の集いで


教皇フランシスコは、8月2日、日曜正午の祈りを信者と共に唱えられた。

集いの中で、教皇はこの日の福音朗読箇所、「わたしが命のパンである」とイエスが宣言する場面(ヨハネ6,24-35)をテーマに説教を行われた。

イエスがパンを増やす奇跡を行われた後、人々はイエスを追ってカファルナウムまでやって来た。人々の熱狂の意味を知るイエスは、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(同6, 26)とはっきり言われた。

人々がイエスを捜すのは、彼らの空腹を満たした物質としてのパンを求めてであり、イエスが「パンの奇跡」の中で、皆のためにパンを裂き、それを与えたのは、イエスご自身の愛の表現であったことを人々は理解しなかったと教皇は述べられた。

パンの与え手よりも、パンそのものに価値を見出しす人々に対し、イエスは彼らが与えられた物だけでなく、その与え手について知り、発見する必要を示し、食べる物、着る物といった日常の心配を超えたものに対して開眼するよう招いておられると教皇は指摘。

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(同27)というイエスの言葉は、救いを求め、神と出会うことへの招きにほかならないと話された。

人間は肉体的な空腹のほかに、普通の食べ物では満たされない、命と永遠に対する飢えを抱えていると述べた教皇は、「命のパン」であるイエスだけがその飢えを満たすことができると強調された。

そして、イエスはわたしたちから日用の糧を求める不安を取り除くのではなく、わたしたちの地上における存在の真の意味が「永遠」すなわち神との出会いの中にあることを思いださせてくれると話された。

「命のパン」であるイエスと出会い、イエスを受け入れることで、わたしたちは人生の困難な道のりに希望を得ると共に、兄弟たちの精神的・物質的飢えをも満たす使命をも受け取ると説く教皇は、隣人への兄弟愛と連帯を通して、人々の間にキリストとその愛の現存を示していこうと呼びかけられた。

 

 

 








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