2014-09-26 16:15:58

教皇一般謁見・カテケーシス・「唯一」「聖」なる教会(2014.8.27)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

毎回、使徒信条を唱えるたびに、わたしたちは教会は「唯一」「聖」なる教会であると宣言します。

教会は「唯一」です。なぜなら、教会の源泉は、一致と完全な交わりの神秘である三位一体の神の中にあるからです。教会また「聖」でもあります。イエス・キリストの上に建てられ、その聖霊に生かされ、その愛と救いに満たされているために「聖」なのです。

しかし、教会は聖でありながら、同時に罪人によって構成されています。わたしたちは皆罪人であり、毎日わたしたちの弱さと惨めさを体験します。ですから、わたしたちが宣言するこの信仰は、わたしたちを回心へと、また毎日一致と聖性に生きる勇気を持つようにと励まします。もしも、わたしたちが一致せず、また聖なるものでもないなら、それは、わたしたち自身がイエスに忠実ではないからです。

しかし、イエスはわたしたちを一人ぼっちにはしておきません。決してご自分の教会を見捨てることはありません。イエスはわたしたちと一緒に歩んでくださいます。わたしたちをわかってくださいます。わたしたちの弱さや罪を理解し、そしてわたしたちを赦してくださいます。いつも素直に赦していただきましょう。イエスはいつもわたしたちと共におられます。そして罪に陥らないように、より聖であるよう、より一致しているよう、助けてくださいます。

1.わたしたちにとって第一の慰めは、イエスご自身が弟子たちの一致のために祈ってくださったことです。イエスは最後の晩餐でこう祈りました。「父よ、彼らが一つでありますように」。イエスは一致のために祈りました。その祈りを、まさしくわたしたちのために、その生命を捧げ尽くそうとするご受難の始めに捧げました。わたしたちが何回も読み直し黙想するように招かれている、ヨハネの福音のあの感動的な箇所です。 (参考:ヨハネ 11.21-23)

主がその死の寸前に、自分自身のことではなく、わたしたちのことを考えてくださったのは、、なんとすばらしいことでしょう。御父との悲しみに沈んだ対話の中で、わたしたちがわたしたち自身の間でまた神と一致できるよう祈られました。わたしたちも神との愛の一致に入ることができるよう、こうしてイエスは御父へのわたしたちの取次ぎ者となってくださいました。ますます一致がわたしたちキリスト共同体の「しるし」、そしてわたしたちの中にある希望の理由を尋ねる人々への最も美しい答えとなるように、イエスはその言葉をわたしたちへの遺言として残されたのです。 (1 Pペトロ3,15)

2. 「父よ、あなたがわたしの中におり、わたしがあなたの中にいるように、皆が一つになりますように。世があなたがわたしを遣わしたことを信じるように、彼らもわたしたちの中にあるように」 (ヨハネ 17,21)

教会はその初めから、イエスが大変心にかけていたこのことを実現するよう努力してきました。使徒言行録は、初期のキリスト教徒たちは一つの心、一つの魂を持っていたと記し、他の人々とは異なっていたと伝えています。 (使徒言行録 4,32)
そして、使徒聖パウロも、キリスト者は一つの身体であるということを忘れないようにと勧告していました。 (1 コリント 12,13)

しかし、わたしたちは一致に反する多くの罪があることを体験します。何も教会の大分裂まで考える必要はありません。わたしたちの共同体の中にもある 、まったく普通の分裂もあります。いわゆる小教区の罪です。事実、分かち合いと交わりの場として呼ばれているわたしたちの小教区の中にも、悲しいことに、多くの嫉妬や反発、対立が見られます。皆が噂話に花を咲かせます。小教区の中でどれだけ噂話がされることでしょう。これは大変良くないことです。

例えば誰かが何かのグループの会長に選ばれると、すぐに彼に反対する噂話が流されます。また、他の人がカテキスタの会長に選ばれると、他の人々がすぐ彼女に対する噂話を始めます。こうなっては、もう教会ではありません。こんなことをしてはいけません。主にこのようなことをしない恵みを願わなければなりません。このようなことは、わたしたちが第一の場を占めようする時、わたしたち自身が中心になろうとする時に起こります。また、わたしたち自身の個人的な見方、また野望によって、他人を裁く時,、兄弟たちの良いところではなく欠点に目をやる時、わたしたちを一つにするよりもわたしたちを分裂させるようなことを重要視する時などに起こることなのです。

わたしが前にいた教区で、興味深い素晴らしい話を聴いたことがあります。生涯小教区で働いていた一人のおばあさんについてでした。そのおばあさんを良く知っていた人がこう言いました。「彼女が人の悪口を言ったり、噂話をしているのを聴いたことがありません。彼女はいつも微笑んでいました」。このような女性はすぐに明日にでも列聖できるでしょう。これは大変素晴らしい例です。

教会の歴史を見るなら、わたしたちキリスト者の間にどれ程の分裂があったことでしょう。今もまだ、わたしたちは分裂しています。歴史上、わたしたちキリスト教徒も神学的な違いから、自分たち同士で戦争をしたこともあります。あの30年戦争を思い起こしてみてください。これはキリスト教的だとはいえません。わたしたちはキリスト教徒すべての一致のためにも働かなければなりません。キリストご自身が望まれ、そのために祈られた、一致への道を歩まなければなりません。

3.これらのことに関して、わたしたちは真剣に良心の究明をしなければなりません。キリスト教共同体において、分裂は最も重い罪の一つです。なぜなら、それは教会は神の業ではなく、悪魔の業だと言うようなものだからです。 悪魔はその本質からして、分裂を生じさせ、偏見を吹き込み、関係を破壊します。キリスト教共同体、それが学校であっても、小教区であっても、何であっても、分裂は非常に重い罪です。なぜならそれは悪魔の業だからです。

神はわたしたちがますますお互いを受け入れ、赦し合い、愛し合うよう望まれています。そして、ますます一致と愛そのものである神ご自身に似る者となるよう望んでいるのです。神の憐れみとその恵みに満たされて、神の似姿に似た者となることの中に、教会の聖性があるのです。

親愛なる友人の皆さん、キリストの次の言葉をわたしたちの心に響かせましょう。
「平和のために働く人は幸いである。なぜなら彼らは神の子らと呼ばれるだろうから」。 (マタイ 5,9)
わたしたちの共同体で、分裂や不理解の機会となったことの赦しを心から願いましょう。絶え間ない回心を通さずには、一致に到ることができないことをわたしたちは良く知っています。回心とは一体何でしょう。人の悪口を言ったり、批判したり、噂話をしたりしない恵み、そして、すべての人々を愛する恵みを主に願うことです。主が必ずわたしたちにお与えくださる恵みです。これが回心すると言うことです。

わたしたちの日々の関係が、イエスと御父とのますます喜びに満ちた美しい関係の反映となるよう、お願いしましょう。









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