2014-09-26 15:48:27

アルバニア訪問:教会関係者との出会い・教皇講話(2014.9.21 ティラナにて)


わたしは皆さんに向けた言葉を準備してきましたが、それは大司教に渡しておきますから後で読んでください。

わたしは今、あなたたちに別のことを言いたくなりました。聖書朗読の中で聞いた「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、憐れみ深い父、あらゆる慰めの源である神は称えられますように。神は、わたしたちがどのような苦難にある時も慰めてくださいます。それで、わたしたちも、自分たちが神から慰めていただくその慰めによって、あらゆる苦難の中にある人を慰めることができるのです」(2 コリント 1,3-4)という晩課の中で、今日、教会がわたしたちに反省を促すこの言葉についてです。

この2ヶ月間、わたしはアルバニアにおける迫害の歴史を読みながら、この訪問に備えました。それはわたしにとっては、一つの驚きでした。わたしはあなた方の民族がこれほど苦しんだことを知りませんでした。今日、空港から市内の広場までの道のりで、道路に掲げられた多くの殉教者たちの写真を見ました。この民は自分たちの殉教者たち、たくさんの苦しんだ人々の思い出を大切にしています。この民は殉教者たちの民族です。

今日、この儀式の始めに、この二つのことがわたしの心を打ちました。わたしが皆さんに言いたいのは、これらの殉教者たちが生命をかけて、単純なことばで語ったことです。彼らはその単純さと、多くの苦しみをもって語りました。彼らに尋ねましょう。「あなたたちはどのようにして、これほどの迫害を生き抜いたのですか」と。きっと彼らは、わたしたちが今耳にしたコリントの教会への第2の手紙の言葉を繰り返すことでしょう。「神は憐れみ深く、あらゆる慰めの神です」「わたしたちを慰めてくれたのは、神ご自身です」と。彼らはこの単純さをもって答えてくれました。彼らはあまりにも苦しみました。彼らは物理的にも精神的にも苦しみ、不安にも苛まれました。しかし、そうです、主が彼らを慰めていたのです。

今、わたしは、鎖につながれ牢獄にいた聖ペトロのことを考えています。全教会が彼のために祈り続けていました。主は彼ら殉教者たちを慰めていたのです。なぜなら教会の中には一つの民が、神の民がいるからです。多くの人々、観想修道女たちが、彼らのために祈っていたのです。これは教会の神秘です。教会が民を慰めてくれるよう主に祈る時、主は謙虚な隠れた方法で、しかし心の奥で力強く慰めます。

わたしは確信しています。殉教者らは自分たちがしたことを決して自慢したりはしないでしょう。なぜなら彼らを支えていたのは主であると知っているからです。彼らはわたしたちにこう言うでしょう。近くから主に従うよう招かれているわたしたちにとって、唯一の慰めは神から来るのだと。もしも慰めを他のところに求めるなら、それは大きな間違いです。司祭も、修道者も、シスターたちも、奉献生活者たちも、主から遠くに他の慰めを求めるならば、それは大きな間違いであり、災いです。

今日、わたしはこのことに関しては厳しいことを皆さんに言いましょう。あなたたちが神以外の他の所に慰めを求めるならば、決して幸せにはなれないでしょう。そして、主の慰めに自分の心を開かないならば、他の誰をも慰めることはできないでしょう。さらに、大預言者エリアがイスラエルの民に言った通りになるでしょう。「あらゆる慰めの神、父なる神は祝されますように。あらゆる苦しみの中にいる人々を、わたしたち自身が神からいただいた同じ慰めによって、慰めることができるよう、神はどんな困難の中でもわたしたちを慰めてくださいます」。

謙遜に、高ぶることがないように、殉教者たちはわたしたちにこう言うでしょう。「わたしたちは罪人です。でも、主はいつもわたしたちと共にいてくださいました」と。これがわたしたちの歩むべき道です。どうか勇気を出して進んでください。







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