2014-01-24 18:09:57

教皇一般謁見・カテケーシス・洗礼について②(2014.1.15)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

先週水曜の一般謁見で、秘跡をめぐる一連のカテケーシスを、洗礼の秘跡から開始しました。今日も洗礼について考察しながら、この秘跡がもたらす大変重要な点を強調したいと思います。それは、洗礼がわたしたちをキリストの身体、神の民のメンバーとするということです。聖トマス・アクイナスは、洗礼を受ける者はキリストにその一部分となったかのように結び付けられ、信者たちの共同体、すなわち神の民の中に組み入れられると言っています。第2バチカン公会議の教えによれば、洗礼はわたしたちを神の民の中に導き入れ、歴史の中を歩み続ける旅する神の民の一員にしてくれるのです。

事実、生命が世代を通じて伝達されるように、洗礼の泉から再び生まれることを通して、世代から世代へと神の恵みは伝達されます。この恵みによってキリスト教徒たちは時代の中を歩み、河が大地を潤すかのように神の祝福を世界に広げていくのです。福音書が言うように、イエスが命じた時から、弟子たちは人々に洗礼を授けに出かけ、あの時から今日に到るまで、洗礼を通して信仰が鎖の輪のように伝達されてきました。わたしたち一人ひとりはその鎖の輪の一つです。そして、地を潤す河の流れのようにいつも一歩前進するのです。このように、神の恵み、わたしたちの信仰を、子どもたちに伝えていかなければなりません。この子どもたちもまた、ひとたび大人になったら、その信仰を自分の子らに伝えていくことができるようにです。洗礼とはこのようなものです。なぜでしょうか。それは洗礼が信仰を伝えるこの神の民の中にわたしたちを導き入れるからです。これは大変重要なことです。歩みながら信仰を伝える神の民です。

洗礼のおかげで、わたしたちは世界に福音をもたらすよう召された弟子、宣教者となります。「洗礼を受けたものは誰であれ、教会の中でいかなる職にあろうとも、信仰教育の段階がどんなであろうとも、福音宣教の行動的担い手です。新しい福音宣教は、新しい活動を促します」。神の民は、弟子でもある民です。なぜなら信仰を受け取るからです。そして宣教者でもあります。なぜなら信仰を伝達するからです。これが洗礼がわたしたちの中に実現することです。洗礼はわたしたちに恵みを与え、信仰を伝えてくれます。教会の中で わたしたちは皆弟子です。生涯にわたって、わたしたちはいつも弟子なのです。そしてわたしたちは皆、主が託したそれぞれの場において、宣教師でもあるのです。

すべての人々、一番小さな人も宣教師です。そして大きな人たちも弟子なのです。ある人は言うでしょう。「司教たちは弟子ではありません、彼らは何でも知っています。教皇も何でも知っていますから、弟子ではありません」と。そうではありません。司教も教皇も実は弟子なのです。もし弟子でないならば、善を行なうことはできません。宣教師でもありえません。信仰を伝達することもできません。わたしたちは皆、弟子であり宣教師です。

キリスト教的召命の神秘的側面と、宣教的側面の間には、どちらも洗礼に根差した、解くことのできない結びつきがあります。「信仰と洗礼を受けることで、わたしたちキリスト者はイエス・キリストは神の子であると告白し、神を『わたしたちの父』と呼ばせる聖霊の働きを受け取ります。洗礼を受けた者すべては、三位一体との交わりを伝え生きるよう招かれています。なぜなら、福音宣教とは、三位一体の交わりに与るよう呼びかけることだからです」。

誰一人、自分で自分を救うことはできません。わたしたちは信じる者の共同体、神の民です。この共同体の中で、愛の体験を分かち合うことの素晴らしさを知ります。しかし同時に、わたしたちの罪や限界にも関わらず、互いに恵みを伝え合う「通り道」となることが必要です。共同体的側面は、添え物や飾りではなく、キリスト教生活、証しと福音宣教に不可欠な要素です。キリスト教信仰は、教会の中で生まれ、生きるのです。洗礼において、家庭や小教区は、新しいメンバーのキリストへの、そしてキリストの身体である教会への一致を祝うのです。

神の民にとっての洗礼の重要さを語る上で、日本のキリスト教共同体の歴史は模範となるものです。日本のキリスト教徒たちは、17世紀初頭から厳しい弾圧を受けました。これによって多くの殉教者を出し、司祭たちは追放され、信者たちは殺害されました。日本に司祭はいなくなってしまいました。皆、追放されてしまったのです。そこでキリスト教共同体は、潜伏生活に入り、隠れた生活の中で信仰と祈りを守ったのです。子どもが生まれるとお父さんやお母さんが洗礼を授けていました。なぜならすべての信者は、特別な状況においては、洗礼を授けることができるからです。

そして2世紀半、250年の後、日本に宣教師が戻った時、何万人ものキリスト教徒が発見され、教会は再び花開くことができました。彼らは洗礼のおかげで生き残ったのです。これは偉大なことです。神の民は子どもたちに洗礼を授け、それが続くことによって、信仰が伝えられていくのです。日本の信者たちは、隠れながらも、強い共同体の精神を保ち続けました。なぜなら洗礼が彼らをキリストにおいてただ一つの体としたからです。信者たちは孤立し、隠れていましたが、常に神の民の一部でした。この歴史からわたしたちは多くのことを学ぶことができるでしょう。








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