2014-01-17 19:26:44

教皇一般謁見・カテケーシス・洗礼について①(2014.1.8)




親愛なる兄弟姉妹の皆さん

今日から秘跡についてのカテケシースを始めましょう。まず洗礼の秘跡を考察しましょう。
ちょうど次の日曜日は、主の洗礼の祝日です。

1.洗礼はわたしたちの信仰そのものの土台であり、わたしたちをキリストとその教会の生きたメンバーとします。洗礼の秘跡は、聖体の秘跡と堅信の秘跡と共に、「キリスト教入信の秘跡」と呼ばれます。この三つの秘跡は、一つにまとまったものとして、わたしたちをキリストに似た者とし、キリストの現存とその愛のしるしとする偉大な秘跡です。

次のような疑問が生まれることでしょう。洗礼は本当にキリスト者として生き、キリストに従うために必要なものでしょうか。単なる一つの儀式ではないでしょうか。子供たちに名前を与えるための、教会の単なる形式的なものではないでしょうか。このような疑問はあり得ることです。

これに関して、使徒聖パウロの記述はよい説明となります。「それとも、あなたがたは知らないのですか。洗礼を受けてキリスト・イエスと一致したわたしたちは皆、キリストの死に与る洗礼を受けたのではありませんか。わたしたちはその死に与るために、洗礼によってキリストと共に葬られたのです。それはキリストが御父の栄光によって使者のうちから復活させられたように、わたしたちもまた、新しい命に歩むためです」。 (ローマ 6,3-4)。

ですから、洗礼は単なる形式ではありません。わたしたちの存在そのものの奥底に達する行為なのです。洗礼を受けた赤ちゃんと、そうでない赤ちゃんは、同じではありません。洗礼を受けた人と、受けていない人とは、同じではないのです。わたしたちは洗礼によって尽きることのない命の泉に浸されるのです。それはキリストの死、全歴史の中で最も大きな愛の業です。この愛のおかげでわたしたちは、悪や罪、死の権力から解放され、神と兄弟たちとの交わりの中にあって、新しい生命に生きることができるのです。

2.誕生後すぐ洗礼を受けたなら、多くの人はこの秘跡を受けた時のことを少しも覚えていないでしょう。この広場でもわたしはすでに何度かこの質問をしました。「皆さんの洗礼の日付けを覚えている人は、手を挙げてください」と。イエスのあの無限の救いの泉に自分が浸された日を知るのは大切なことです。

皆さんに勧めます。勧めというより今日の宿題と言うべきでしょう。今日、家に帰ったら、自分の洗礼日がいつだったか尋ねてみてください。この素晴らしい洗礼の日がいつか分かるでしょう。わたしたちの受洗日を知ることは、大変幸せな日を知ることになります。それを知らないということは、主がわたしたちの中でなさったことや、わたしたちがいただいた素晴らしい恵みを忘れる危険があります。また、過去に起こった単なる一つの出来事、自分の意思ではなく両親の意思で行われたこと、だから今の自分には何の関係もないことともなりかねません。わたしたちの洗礼の記憶を目覚めさせる必要があります。わたしたちは毎日自分の洗礼を生きなければなりません。自分の限界、弱さや罪にも関わらず、イエスに従い教会の中に留まることができるのは、それはまさしくわたしたちが新しい存在となり、キリストと一つになった洗礼の秘跡によるのです。事実、原罪から解放され、父なる神とイエスとの関係の中にわたしたちが入れたのも、洗礼の力にあるのです。

わたしたちは新しい希望をもたらす者です。なぜなら、洗礼はこの新しい希望をわたしたちに与えてくれます。生涯にわたって救いの道を歩み続ける希望です。この希望を誰も何も消すことはできません。なぜならこの希望は決して欺くことがない希望だからです。覚えていてください。主における希望は、決して欺くことはありません。洗礼のおかげで、わたしたちは自分たちを侮辱し、悪を施す人々をも赦すことができるようになるのです。さらに、洗礼によって、わたしたちは貧しい人々の中に わたしたちを訪れ、近くにいてくださる主のみ顔を認めることができるのです。洗礼は、必要に迫られている人々や、苦しむ人々のうちに、わたしたちの隣人、そして主のみ顔を見ることを助けてくれます。これらすべては、洗礼の力のおかげで可能となるのです。

3.大切な最後の点です。ここで質問をしてみましょう。自分に自分自身で洗礼を授けることができるでしょうか。誰も自分自身に洗礼を授けることはできません。それは誰もできません。わたしたちはこの秘跡を願い、希望することはできます。しかし、主の名においてこの秘跡を授ける誰かを必要とします。なぜなら、洗礼は兄弟的な配慮と、分かち合いの中で与えられる贈り物だからです。いつも歴史の中で、一人がもう一人を、そしてまたもう一人をと、鎖がつながるように洗礼を授けてきました。恵みの鎖です。わたしは自分で洗礼を自分自身に授けることはできません。洗礼を授けてくれるよう、他の人に願わなくてはなりません。これは兄弟愛の行為であり、教会において子となる行為なのです。洗礼の儀式の中に、教会の最も純粋な姿を認めることができます。教会は母のごとく、聖霊の豊かさの中で、新たな子らを生み続けるのです。

洗礼によってわたしたちがいただいたこの恵みを、生涯にわたり毎日ますます強く体験することができるよう主に願いましょう。わたしたちの兄弟たちに出会うことによって、真の神の子イエス・キリストの、真の兄弟姉妹、教会の真のメンバーに出会うことができますように。今日の課題を忘れないでください。自分自身の洗礼の日付けを尋ねてください。 自分の誕生日を知るように、洗礼日も知らなければなりません。なぜならそれは大きな祝日なのですから。








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