2013-10-08 19:00:46

アッシジ訪問:教皇、観想会の修道女らに励まし「観想と共同生活から生まれる喜びを」


教皇フランシスコは、4日、司牧訪問した中部イタリア・アッシジで観想修道会の修道女らとお会いになった。

午後、アッシジの聖クララ(サンタ・キアーラ)教会を訪れた教皇は、地下にある聖クララ(1193頃-1253)の墓前で祈りの時を持たれた。

続いて教皇は、同聖女が創立した聖クララ会の修道女たちを前に講話を行われた。

講話の後、教皇は修道女たちを祝福し、一人ひとりを励まされた。

アッシジの聖クララ会修道院での教皇フランシスコの講話は以下の通り。


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皆さんの温かい歓迎と、教会のための祈りに、心から感謝します。

観想会のシスターがその生涯を禁域の中で主に奉献する時、わたしたちには理解できない一つの変容が起こります。わたしたちの普通の考えでは、シスターはただ「絶対者」「神」とだけと共にいて、孤立のうちに、厳しい償いの生活をすると思いがちです。しかし、もしその通りだとするならば、このような生活はカトリックの禁域のシスターの生活ではないばかりか、キリスト教的ですらありません。

実は、この生活は常にキリストに向かう道なのです。キリストこそ、あなたたちの生活、償い、共同生活、祈りの、その普遍的な祈りの中心です。この道では、禁域のシスターの厳格な修徳生活だと皆が考えていることとは正反対のことが起こります。イエス・キリストの観想の道を行く時、キリストと共なる祈りと償いの道を歩む時、それはまことに人間的なものとなるのです。

禁域に生きる観想会のシスターは、実に大きな人間性、母なる教会が持つあの人間性を持つよう招かれています。本当に人間生活のすべてを理解し、人間的な問題を理解することができる者となるよう召されているのです。皆さんの人間性は、この道、すなわち神のみ言葉の受肉を通して実現されます。それはイエス・キリストを通して実現するのです。

真に人間的なシスターのしるしとは、一体どういうものでしょうか。それは、喜びです。喜びに満ちていないシスターを見る時、わたしは悲しくなります。多分、彼女らも微笑みはするでしょう。しかし、それは飛行機の機内添乗員の微笑のようです。心の中から出て来る喜びの微笑ではありません。いつもイエス・キリスト共にいてください。

今日のミサの中で、十字架像について語りながら、聖フランシスコは見開いた目、開いた傷、血の流れ落ちるキリストを見たたのだとわたしは言いました。これがあなたたちの観想です。これが現実です。イエス・キリストのあるがままの姿です。抽象的な概念ではありません。頭を空っぽにしてしまうような、抽象的な概念ではありません。イエス・キリストの傷を観想することです。キリストはその傷を天にまで持って行き、そして今も傷ついたままです。イエス・キリストの人性の道です。常にイエス、人であり神である方と共にいましょう。

人々が祈りを願うため、あるいは自分の抱える問題を語るために、修道院の面会室に行くのは素晴らしいことです。たぶん、修道女は特別なことは何も言わないでしょう。けれども、それはまさしくイエス・キリストの観想から出てくる言葉です。なぜなら、修道女は教会のように人間性に関する専門家の道にいるからです。

これこそが皆さんの道です。あまりにも霊的であり過ぎないように。あまりにも霊的でありすぎる時、皆さんの会と同様によく知られる観想修道会の創立者、たとえばアヴィラの聖テレサのことを考えます。あまりにも現実からかけ離れた、霊的なことにこだわるシスターが聖テレサのところに来た時、彼女は台所係りのシスターに「彼女にビフテキを食べさせなさい」と言ったそうです。

いつもイエス・キリスト共に、いつもイエスと共にいてください。イエス・キリストの人性にいつも目を向けてください。なぜなら、神のみ言葉は肉において来られました。 神はわたしたちのために肉となられました。この事実が、わたしたちに人間的な聖性、偉大で美しく成熟した母性的な聖性を与えてくれるのです。

教会はこうでなければなりません。お母さんです。生命を与えるのです。皆さんが祈る時、たとえば、司祭たちのために、神学生たちのために祈る時、あなたたちは彼らのお母さんのようになるのです。 祈りによって彼らが神の民の善き牧者なれるよう助けてあげてください。けれども、聖テレサのビフテキも忘れないでください。大切なことですよ。

これが第一のことです。いつもイエス・キリストと、イエスの御傷、主の御傷と共にいること。なぜなら、復活後もキリストは傷を持ち続けたことは厳正な事実だからです。

第二番目として、皆さんに簡単に私が言いたいこと、それは共同生活です。

赦しなさい、耐えなさい。なぜなら共同生活は決して易しいものではないからです。悪魔は分裂を起こすために何でも利用します。「わたしは別に悪く言いたくはないのですけれども、でも…」こうして分裂が始まるのです。これではだめです。何も良いものをもたらしません。ただ分裂がもたらされるだけです。

皆さんの間に友情を、家庭の生活を、愛を育んでください。決して修道院が煉獄となりませんように。むしろ常に家庭であるように。問題はあるでしょう。これからもあり続けるでしょう。しかし、一つの家庭でそうあるように、愛をもって解決するよう努めてください。一つのことを解決するために、もう一つのことを破壊することがありませんように。

競争はしないでください。共同生活を大切にしてください。なぜなら共同生活において、また家庭がこうであるなら、その共同体の中心にはまさしく聖霊がおられるからです。

この二つのことを、わたしは皆さんに言いたかったのです。いつも、いつも、イエス、人となられた神であるイエスと共にあって観想すること。そして、常に大きな心をもって共同生活を守ること。あまり些細なことを気にせず、威張らず、すべてを耐え忍び、心から微笑みなさい。そのしるしは、喜びです。観想と美しい共同生活から生まれるこの喜びを、わたしは皆さんのために願います。
皆さんの歓迎に心から感謝します。わたしのためにもお祈りください。どうか忘れないでください。皆さんを祝福する前に、聖母に「アヴェ・マリア」を唱えましょう。








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