2013-07-27 17:03:30

WYDリオ大会:教皇と若者による十字架の道行き「イエスの受難と自分との関わりを見つめる」


教皇フランシスコは、ブラジル時間26日夜、リオデジャネイロで若者たちと共に十字架の道行きを執りおこなわれた。

世界青年の日(ワールドユースデー、WYD)リオ大会は後半に入り、地元や近隣国からさらなる参加者が到着。さらに前日26日から教皇の大会公式行事も始まり、その盛り上がりはいっそう大きなものとなっている。この夜、コパカバーナで行われた十字架の道行きに参加した若者の数はおよそ150万人に達した。

十字架の道行きは、キリストの受難を14の場面に分け、各所ごとを黙想し祈る信心業。世界青年の日大会の中で、十字架の道行きは、恒例の重要行事となっている。

リオ大会の十字架の道行きは、4キロにわたるコパカバーナの海岸通りのうち、1キロの区間に13の舞台を設置。教皇が見守るメイン会場を含め、合計14の舞台でキリストの「受難劇」が展開された。これらの聖劇はブラジルをはじめ、プエルトリコ、メキシコ、アルゼンチン、ドイツ、米国から参加した280人のアーティストやボランティアらによって、宗教的かつ社会的な多くのメッセージを込めて演じられた。

香炉を振る従者たちを先頭に、ブラジルの青年らが背負う十字架、そして参加国の国旗を手にした若者たちが海岸通りをゆっくりと進み、この宗教行列が一つの舞台前に到着するたびに、聖劇を背景に、イエスの受難を現代の若者の苦しみや試練と重ねあわせ、キリストに生きる力や回心を願う黙想が行われた。

十字架の道行きの終了後、教皇フランシスコは一連の黙想を締めくくる説教を行われた。

この中で教皇は、世界青年の日のシンボルとして使われている木の十字架について言及。「WYDの十字架」とも呼ばれるこの十字架が、1984年「贖いの聖年」閉幕後、ヨハネ・パウロ2世によって若者たちに託され、その後様々な世界を旅したことを思い起こされた。

「自分自身の何かを十字架のもとに残すことなく、そしてイエスの十字架の何かを自分の中に持つことなくして、イエスの十字架に触れることはできません」と述べた教皇は、いろいろな世界と人々を見てきたこのWYDの十字架を前に、これまで「自分は十字架の中に何を残したのか」、その一方で「イエスの十字架は自分に何を残したのか」、さらに「十字架は自分の人生に何を教えたのか」を考えるよう招かれた。

イエスは十字架を背負いながらわたしたちの道を共にたどり、わたしたちの恐れや苦しみをその身に引き受けてくださると教皇は強調。

「暴力の声なき犠牲者、生活困難や、子どもを亡くした悲しみ、薬物依存などに苦しむ家族、食べ物が余っている世の中で飢えを抱える人々、宗教や信条による迫害あるいは人種差別を受ける人々、利己主義や贈賄がはびこる政治に失望した若者、言動不一致の聖職者のために神や教会への信頼を失った人々 、イエスはこうした人々に一致します。キリストの十字架の中には、人間の苦しみと罪があり、キリストはそれを両腕を広げて受け入れ、わたしたちの十字架をご自分の肩に担いでくださるのです」と話された。

「では、キリストの十字架はそれを見、それに触れた人々に何を残すのか、それは揺らぐことのない神の愛の確かさです」と述べた教皇は、その大きな愛はわたしたちの罪の中に入りそれを赦し、苦しみの中に入りそれに耐える力を与え、死の中に入りそれに打ち勝たれると説かれた。

キリストの十字架は、わたしたちもその愛をまとい、苦しむ隣人を慈しみと愛をもって見つめるよう教えてくれると教皇は指摘。

イエスの受難の道行きに登場する人々、ピラト、シモンという名のキレネ人、マリア、婦人たちを若者たちに思い起こさせながら、それでは自分は誰なのかを考えるよう勧められた。

わたしたちも他人を前にして、イエスを救うための異を唱えず、手を洗ってすませるピラトのように振舞うのか、イエスを助けるためその重い十字架を担いだキレネ人のようであるのか、イエスに愛をもって最後までついていくことを恐れなかったマリアや婦人たちのようであるのか、「あなたは誰のようでありたいのでしょう、ピラトですか、キレネ人ですか、マリアですか」と教皇は問いを投げ、自分と十字架の関係を見つめるよう若者たちを促された。








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