2013-06-11 19:14:17

教皇と生徒たちの一問一答(前編):日本などへ海外宣教を希望したことも


教皇フランシスコは、バチカンで7日、イエズス会系の学校の生徒たちと交流され、学童・生徒たちの質問に答える機会を持たれた。

少年少女たちが教皇に投げかける問いは多岐にわたり、それは成長期にある青少年たちが人生や生活に助言を求める内容から、教皇フランシスコ自身の生活や召命に対する率直な質問にまで及んだ。

教皇は生徒たちの問い一つひとつに誠実に応じられ、たとえば「なぜイエズス会に入ったのですか」という質問に対し、「宣教師になりたかったのです」と答えつつ、「神学生時代、当時のイエズス会総長、アルペ神父に、日本か、あるいはどこかに、宣教師として派遣してくださいと手紙を書いた」ことをも語られている。

教皇と生徒たちの質疑応答(前半部)は以下のとおり。

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少年:僕は、レオ13世学院のフランチェスコ・バッサーニです。僕はパパ様宛の手紙に「信じることを捜し求めている」と書いたあの少年です。僕は忠実でありたいです。でもそれは結構難しいというか、時々疑問がわいてしまいます。僕らみたいな年齢では、きっと普通だとは思いますけれど。パパ様、成長の途中にある僕や、僕みたいな人たちみんなの助けになる言葉を何かください。

教皇:歩くということは、一つの技術です。いつも急いで歩いていたら、疲れてしまって、結局目的地に着くことができませんね。でも、もし止まってしまって、歩くのをやめてしまっても、それも目的地に着くことができません。歩くというのは地平線を眺める技術です。自分は一体どこに行きたいのかを考えないといけませんし、歩き続けるとしたら、その疲れにも耐えなくてはなりません。ですから多くの場合、歩みというのは難しくて、たやすいことではありませんね。「自分はこの歩みに忠実でありたい、でも難しい」と言うのでしょう。考えてもごらんなさい。暗い日もあるでしょう。失敗する日も、転んでしまう日もあるでしょう。転んで、また転んで。。。でも、あなたたちは失敗を恐れてはいけません。転ぶのを怖がったらだめですね。歩く技術で大切なのは、転ばないことではなくて、転んだら、転んだままでいないことです。すぐに立ち上がって、歩き続けることですね。これは素晴らしいことですよ。これが毎日努力するということですし、人間的に歩むということです。でも、一人で歩くのはつまらないですよ。つまらないし、退屈です。友だちや、自分を愛してくれている人たちとみんなで一緒に歩むこと、それは自分の到達すべき目的にたどり着くのを助けてくれます。あなたの質問によく答えられたかな。どうですか?歩み続けることを恐れないようにしましょう。

少女:わたしは、マッシミリアーノ・マッシモ学院のソフィア・グロッタローラです。あなたも、わたしたちみんなみたいに、小学校の時、お友だちがいたと思うんですけど? それで、今パパ様になってしまっても、まだこのお友だちと会っていますか?

教皇:でも、わたしは教皇になってまだ2ヶ月半ですしね。わたしの友だちは皆、飛行機で14時間のところに住んでいるでしょう?遠くにいるんですよ。でも、あなたに言いましょうか。もう3人はここまで会いに来てくれたんですよ。わたしは彼らに会いますし、彼らは手紙を書いてくれるんです。彼らのことを大切に思っています。人は友だち無しでは生きて行けません。それは本当に大切なことですよ。

少女:でも、パパ様になりたかったですか?フランシスコさん、パパ様になりたかったの?(小学生テレーザの質問)

教皇:あなたは、自分を大切にしない人というのが、どういう人だかわかるかな?自分がパパ様になりたいと思うような人は、自分を大切にできない人ですよ。神様はそういう人を祝福されないでしょう?ですから、答えはいいえです。わたしはパパ様になりたいと思ったことはありませんでした。いいですか?ほら、こっちにいらっしゃい。

若い女性:パパ様、わたしたちはトリノ校のコーラス・グループのモニカとアントネッラです。一つお伺いしたいことがあります。わたしたちはイエズス会の学校で勉強したので、聖イグナチオの霊性について黙想する機会が時々ありました。そこで質問ですが、パパ様が修道生活に入る決心をされた時、教区の神父や、他の修道会ではなく、なぜイエズス会士になろうとされたのですか。

教皇:トリノの学校は、わたしは何度も泊まったことがあるんですよ。だからよく知っています。イエズス会について一番気に入ったことは、その宣教性でした。わたしは宣教師になりたかったのです。まだ哲学生、いや神学生だった時、当時のイエズス会の総長だったアルペ神父様に、日本、あるいはどこかに、宣教師として派遣してくださいと手紙を書いたんです。けれども、アルペ神父様はよく考えた上で、大きな愛を込めてわたしにこう言ったんですね。「でも、あなたは肺の病気をしましたね。それは辛い仕事には向いていないでしょう」と。それで、わたしはブエノス・アイレスに残りました。けれども、アルペ神父様は本当に優しい人でした。なぜならわたしに「あなたは宣教師になれるほどの聖人ではない」とは言いませんでしたから。アルペ神父様は、それは親切で、愛のある人だったんですよ。イエズス会員になろうと、わたしに大きな力を与えたのは、イエズス会の宣教性です。外へ出て行くこと、イエス・キリストを告げ知らせるために宣教に出て行くこと。これがわたしたちの霊性だと思います。外に出て行く、出ること、いつもイエス・キリストを告げ知らせるために出て行くこと。自分たちの組織の中にあまり閉じこもりすぎないことです。これがイエズス会士になった動機です。

少女:わたしはレオ13世学院のカテリーナ・デ・マルキスです。わたしは思っていたんですけれども、なぜパパ様は、教皇としての豊かさ、たとえば豪華な住居だとか、大きな車を捨てて、近くの小さな宿舎に住んだり、司教様たちと一緒にバスに乗ったりしたのですか。いったいどうして豊かさを捨てることができたのですか。

教皇:これは、豊かさの問題だけではないのです。わたしにとっては、自分自身の性格の問題なんですね。わたしには、人々と触れ合っていることが大事なのです。あまり人々と接触のないような生活は向いていないんですね。でも、もう、ある教授がわたしに同じことを聞いたんですよ。「なぜ、あなたはあそこに住みに行かないのですか」と。わたしは言いました。「それはですね、先生、精神医学上の理由ですよ」って。なぜなら、それがわたしの性格なのです。たとえその住まいが豪華でなかろうと、閑静でなかろうと同じですよ、わかりますか?それと、そうですね、今、世界の大きな貧困が問題になっていますね。これは恥ずべきことです。世界の貧困は恥ずべき問題です。世界は大変に多くの豊かさと、皆に食べさせるだけの資源があるのに、どうして、飢えて、学校にも行けない子どもたちや、貧しい人たちがたくさんいるのでしょうか?貧しさは、今日、一つの叫びとなっています。わたしたち皆が、もう少し簡素になれるよう、考える必要があります。これも、皆が取り組むべきことですよ。貧しさの先生であるイエスにより似た者となるために、どうしたら自分はもう少し簡素になれるか?それが課題なのです。でも、それはわたしの個人的美徳とかの問題ではありません。それは単にわたしが孤立した生活向きではないことと、たとえばあなたが言った車のことですけれども、それはあまり多くの物を持たないで、もう少し簡素になりましょうと、そういうことなのです。








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