2013-05-13 18:47:36

バチカンで列聖式、イタリアと南米から新聖人


教皇フランシスコは、バチカンで12日、列聖式をとり行われた。

このたび新たに聖人として宣言されたのは、イタリア・オトラントの殉教者アントニオ・プリマルドと同志たち、コロンビアのラウラ・モントヤ・イ・ウペギ修道女、メキシコのマリア・グダルーペ・ガルシア・サヴァラ修道女。

教皇フランシスコは列聖式のミサの説教で、福音的な愛とキリスト教的生き方を、言葉・行動・すべての人々への慈愛を通して、特別な形で証ししたこれらの新聖人を、キリストへの忠実の輝ける模範として称えられた。

この日列聖された聖人たちの人となりは次のとおり。

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- アントニオ・プリマルドと同志たち(イタリア1480年殉教)

オスマン帝国による1453年のコンスタンティノープル陥落と、1456年のベルグラード包囲の後、メフメト2世は、1479年、ロードス島の侵攻を試みたがかなわず、トルコ軍を対岸のイタリアのオトラントに向かわせた。オトラントの人口は当時人口およそ6千人、これに対してトルコ軍は約1万5千人であった。町を占領したトルコ軍は市民らにイスラム教に改宗するよう要求を突きつけたが、拒絶されたため、1480年8月12日、報復として町を砲撃。トルコ軍は町を略奪し、大聖堂の中でステファノ・ペンディネッリ司教はじめ、司祭・修道者・信徒たちを殺害した。翌日、司令官は生き残った市民を集め、改めて棄教を迫ったが、貧しい剪毛職人であったアントニオ・プリマルドは、皆を代表し「彼らはイエス・キリストは神の御子、自分たちの主、真の神と確信している。それを否定するならば、千回死んだほうがましだと望んでいる」と宣言した。司令官はただちにこれら信者の斬首を命じ、兵士たちはプリマルドを最初に、すべての者を殺害した。信徒たちの遺体はオトラントが解放されるまで1年間、野ざらしにされていた。その後、殉教者たちのために大聖堂内に礼拝堂が作られた。


- ラウラ・モントヤ・イ・ウペギ(コロンビア1874-1949 修道女)

ラウラ・モントヤ・イ・ウペギ修道女は、1874年5月26日、コロンビアのキリスト教徒の家庭に生まれた。誕生のその日に洗礼を受け、司祭は彼女にイエスのマリア・ラウラという名を与えた。彼女が2歳の時、父親は祖国と宗教擁護のための戦いで殺害された。財産はすべて没収され、家族は極貧の境遇に落とされた。彼女の母親はこのような境遇にあっても、赦しとキリスト教的精神を教えた。ラウラはごく若い時期から、三位一体の非常に強い神体験を持ち、深い神秘生活を生きた。16歳で母親をも失ったラウラは、メデジンの高等学校を卒業後、「インディオスのための仕事」と呼んでいた計画の実現に取り掛かった。1907年、彼女は深い宗教体験を受けた。十字架上での「キリストの渇き」の観想は、彼女をインディオスたちの救いを目的とする使徒職に強く駆り立てた。1914年、サンタ・フェ・デ・アンティオキアの司教の援助を受けて、「無原罪の聖母とシエナの聖カタリナ宣教女修道会」を創立。インディオスの人権と神の子としての尊厳・権利を擁護するために、自らも彼らの文化・生活に溶け込む努力を続けた。こうしてあらゆる差別と無理解を克服しながら、世界の隅々にまで神を知らしめ、キリストの福音を述べ伝える働きを生涯続けた。聖ラウラは、1949年10月21日、長い苦しみを経て天の御父の身元に帰っていった。

- マリア・グアダルーペ・ガルシア・サヴァラ(メキシコ 1878-1963 修道女)

聖マルゲリータ・マリアと貧民のしもべ会の創立者、マリア・グアダルーペ・ガルシア・サヴァラ修道女は、1878年4月27日、メキシコに生まれた。ルピータと呼ばれた彼女は、明るく皆に愛される性格であった。23歳で婚約したが、心の奥深くで修道生活と病者や貧しい人々への奉仕への召し出しを感じていた。彼女は霊的指導を受けていた司祭の勧めに従い、病院の患者に奉仕する修道会の創立に着手した。会の総長に選ばれた彼女は、その責をまっとうし、貧しさを愛し、病者たちによりよく奉仕できるよう、修道女たちを励まし導いた。病院が経営難に陥った時には、指導司祭に道で寄付を募る許可を申し出、病院を再興できるようになるまで数年間にわたり修道女たちと托鉢活動をした。1963年6月24日に帰天した。








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