2013-05-03 13:06:28

教皇一般謁見・カテケーシス(2013.4.24)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

使徒信条の中で、わたしたちは「主は、生者(せいしゃ)と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます」と宣言します。人類の歴史は男と女が神の姿に似るものとして創造されたことに始まり、キリストの最後の審判で終わります。歴史のこの両極は忘れられていることが多く、特にキリストの再臨と最後の審判については、キリスト者にとってよくわからずあいまいなものとなっていることもしばしばです。

イエスは公生活の間、よくご自身の最後の到来について言及されました。今日は、イエスが「時の終わり」について語るマタイ福音書の3つの箇所、「十人のおとめ」のたとえ、「タラントン」のたとえ、そして「最後の審判」についての説教に耳をよく傾けることで、この神秘に触れてみたいと思います。

まず、キリストの昇天を思い出しましょう。神の御子は彼自身がその身に負われたわたしたちの人性を御父のもとにもたらしました。そして歴史の終わりにすべての現実が御父のもとに託される時まで、すべての人々・世界を自分に引き寄せながら、神の開かれた腕の中に導くことを望まれました。しかし、キリストの最初の降臨から最後の再臨までの間のこの時間をわたしたちは今、生きているのです。

「十人のおとめ」のたとえ(マタイ25,1-13)は、この「今の時間」を背景に語られています。それはこういう話です。十人のおとめが花婿の到着を待っていますが、そのうちの愚かなおとめたちは眠り込んでしまいました。花婿が間もなく着くとの突然の知らせに、皆は迎え出る準備をしますが、五人の賢いおとめたちはともし火のための油を用意していたのに対し、愚かな五人は油の用意がなかったために火のついていないランプを抱えることになりました。愚かなおとめたちが油を買いに行っている間に花婿は到着し、彼女たちは婚宴の席に入るための扉を閉ざされてしまいます。彼女たちは扉を何度もたたきますが、すでに遅すぎました。花婿はこう答えます。「わたしはお前たちを知らない」。

花婿とは主です。そして花婿の到着を持つ時間とは、主がその再臨の前に、わたしたちに憐れみと忍耐をもって与えられた時間なのです。それは目覚めているための時間です。信仰と希望と愛のともし火を保っているべき時間、善と美と真理に心を開いているべき時間です。キリストの再臨がいつなのかわたしたちは知らないゆえに、神の御心に従って生きるべき時なのです。

わたしたちが命じられたことは、出会いのための準備、イエスとの出会いという素晴らしい邂逅のために準備していなさい、ということです。それは、イエスの現存のしるしを見出し、祈りや秘跡を通して信仰を生き生きと保ち、神を忘れないために眠り込まずに目覚めているということを意味します。眠り込んでしまったキリスト者の人生は悲しいものです。それは幸せな人生ではありません。キリスト者はイエスの喜びのもとに、幸福でなくてはなりません。眠り込んではなりません!

2番目のたとえは「タラントン」の話(マタイ25,14-30)です。これは、わたしたちが神から受け取った賜物をどのように使うかということと、主が戻ってこられ、わたしたちにそれをどのように使ったかを尋ねられる時との関係を考えさせます。
このたとえはわたしたちがよく知っているとおりです。主人は旅に出る前にすべてのしもべたちに何タラントンかのお金を預け、彼の留守中にそれを有効に使うようにさせました。最初のしもべには5タラントン、2番目のしもべには2タラントン、そして3番目には1タラントンを与えました。主人の留守中に最初の2人は彼らのタラントン-古代の通貨のことですが-、これを増やしました。これに対し、3番目のしもべは自分のタラントンを地面に隠し、主人にそのまま渡しました。

帰った主人はしもべたちの働きを評定します。最初の2人を褒め、3番目のしもべを外の暗闇に追い出します。なぜなら彼は恐れのためにタラントン(=タレント)を隠し、自分の中に閉じこもっていたからです。キリスト者が自分の中に閉じこもり、主が与えられたものをすべて隠してしまう、…これはキリスト者ではありません。神から与えられたすべてに感謝しないのは、キリスト者ではありません。

このたとえは、主の再臨を待つ時間は、行動の時間であることをわたしたちに教えています。わたしたちは行動の時にあるのです。神からの賜物をわたしたちのためではなく、神のため、教会のために実らせる時です。世界により多くの善を育てるよう努力する時です。特にこの今日の危機にあって、自分の中に閉じこもらないことが大切です。主がわたしたちに与えてくださったすべてのもの、自分の才能、精神的・知的・物的豊かさを埋もれさせず、自分を開き、他の人々に関心を持ち、連帯することが必要です。

この広場に多くの若者を見ました。そうでしょう?大勢の若者たち、どこにいますか?人生の歩みを始めた皆さんに聞きます。神様が皆さんに与えた才能について考えたことがありますか?どうしたら他の人たちに奉仕できるか、考えたことがありますか?才能を埋もれさせてはいけません。大きな理想、心を広げさせ、あなたたちの才能を豊かに実らせる奉仕の理想に賭けてください。人生は、自分の中にそれを大事にしまっておくために与えられたのではありません。それは与えるために、与えられたのです。親愛なる若者たち、大きな心を持ってください。偉大なことを夢見るのを恐れないでください。

終わりに「最後の審判」についての箇所(マタイ 25,31-46)を考察しましょう。ここには主の再臨が書かれています。その時、主は、すべての人間、生ける者と死者を裁かれます。ここで福音書記者が用いているのは、牧者が羊と山羊とを分けるイメージです。右には、神の御旨に従って行動した人たち、飢え渇いた人、異邦人、着る物のない人、病気の人、囚人たちを助けた人たちが置かれます。異邦人と言いましたが、このローマ教区にもいる多くの外国人たちのことを思います。彼らのためにわたしたちは何ができるでしょうか。この一方で、隣人に手を差し伸べなかった人たちが、左に置かれます。

これは、わたしたちが愛について神から裁かれるだろうということを言っているのです。わたしたちがどのように兄弟たちを、特に弱く貧しい人たちを愛したかということです。もちろん、わたしたちは恵みによって、神の先立つ無償の愛の行為によって、義とされ、救われたということを忘れてはなりません。自分たちだけではわたしたちは何もできないのです。

信仰は何よりもわたしたちが受け取った賜物です。しかし、それが実りをもたらすために、神の恵みは、常にわたしたちが神ご自身に向かって開くことと、わたしたちの自由で具体的な答えを要求します。キリストは神の救いの憐れみをわたしたちに伝えてくださいました。そして、ご自分に信頼し、その愛の贈り物にふさわしい、信仰と愛に動かされた行いからなる、良い人生をわたしたちに願われました。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、最後の審判を見ることは、わたしたちにとって決して恐ろしいことではありません。それはむしろ、今この時をより良く生きるように促してくれるのです。神は、わたしたちが毎日、貧しい人や小さき人々の中に神ご自身を見出し、善のために働き、祈りと愛のうちに目覚めているようにと、憐れみと忍耐をもってこの時をわたしたちに与えられました。わたしたちの人生と歴史の終わりに、主がわたしたちを良い忠実なしもべとして認めてくださいますように。









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