2013-04-18 17:41:10

教皇一般謁見・カテケーシス(2013.4.17)


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

使徒信条の中に、イエスは「天に昇り、父の右の座に着いておられます」という箇所があります。イエスの地上における生涯は、昇天の出来事と共に頂点を迎えます。この時イエスはこの世から御父の元に移られ、御父の右の座に上げられたのです。この出来事は何を意味するのでしょうか?わたしたちの人生にどういう影響をもらたすのでしょうか?御父の右の座に着いておられるイエスを観想するとはどういうことなのでしょうか?これについて福音書記者ルカに耳を傾けましょう。

イエスが最後の巡礼にエルサレムに向かうことを決意する場面から見てみましょう。聖ルカは次のように記しています。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ 9,51)。

イエスがこの世の命から離れる場所となる、聖なる都に上りながら、彼はすでに天国という目的地を見ています。しかし、イエスは御父の栄光の元に行くには、十字架を通して、すなわち人類のための神の愛のご計画への従順を通してでなければならないと知っています。

「カトリック教会のカテキズム」には「イエスが十字架に上げられることは、天に上げられることを示し、また、それを予告しています」(n. 662)とあります。わたしたちも自分の信仰生活の中ではっきり知っておくべきことがあります。神の栄光に入るためには、たとえ犠牲や、時に計画の変更を要求されたとしても、毎日の生活において神の御旨に忠実であることが必要だということです。

イエスの昇天の出来事は、オリーブ山の上で起きました。それは、イエスが受難の前に、御父との深い一致を保つために祈りに専心した場所の近くでした。ここでも、神のご計画に忠実に生きる恵みを与えてくれるのは祈りであるということを、わたしたちは再び知ることができるのです。

聖ルカは、その福音書の終わりに、イエスの昇天の出来事を非常に簡潔に記しています。イエスはそこで弟子たちを「ベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて彼らを祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れ、天に上げられた。彼らはイエスの前にひれ伏した。そして大きな喜びをもってエルサレムに戻り、絶えず神殿にいて、神を賛美していた」(24,50-53)。

ここに2つの要素を指摘したいと思います。まず、昇天の際、イエスは祝福という祭司的な行為を行いますが、これに対し弟子たちは彼らの信仰をひれ伏す、つまり跪き、頭を下げるという態度で示しています。これは、一つ目の重要な点です。イエスは唯一、永遠の祭司であり、彼はその受難をもって、死と墓を通り、復活し、天に昇ったのです。イエスは神なる御父のもとで、わたしたちのためにとりなしてくださいます(ヘブライ9,24)。聖ヨハネが、「ヨハネの手紙1」で述べているように、イエスはわたしたちの弁護者なのです。

これはなんと素晴らしいことでしょう。誰かが裁判官のもとに呼ばれたり、裁判になった時、最初にすることは、自分を弁護してくれる弁護士を探すことでしょう。わたしたちは我々をいつも守ってくれる弁護者を持っています。彼はわたしたちを悪魔の策略や、我々自身、わたしたちの罪から守ってくれるのです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、わたしたちはこの弁護者を持っていますから、彼のところに行って赦しや祝福や憐れみを求めることを恐れません。彼はわたしたちをいつも赦してくださり、擁護者としていつも我々を守ってくださいます。このことを忘れないようにしましょう。

イエスの昇天は、わたしたちの歩みにこれほどにも慰めに満ちた現実を示してくれます。真の神であり、人であるキリストにおいて、わたしたちの人性は神のもとに運ばれました。イエスはわたしたちに道を開いてくださいました。山に登る時、登山者の先頭が頂上に着き、わたしたちを自分の方に引き上げてくれるように、神の方に導いてくれるのです。

イエスにわたしたちの人生を信頼をもって託すならば、イエスに自分たちを導いてもらうならば、わたしたちは確かな手の中にあるということです。それはわたしたちの救い主の手、わたしたちの擁護者の手です。

二つ目の要素を考えて見ましょう。聖ルカは、使徒たちがイエスの昇天を見た後、エルサレムに「大きな喜びをもって」帰ったことに触れています。これはわたしたちには少し不思議に思われます。普通、わたしたちが家族や友だちとの、特に死をはじめとする、決定的な別れを経験する時、当然、心に悲しみを味わいます。なぜなら、彼らの顔をもう見ることも、声を聞くことも、その愛情や存在に接することもできないでしょうから。

ところが、聖ルカは使徒たちの深い喜びを強調しています。これはどういうことでしょうか?それはまさに、イエスがいつも彼らと共に留まり、彼らを見棄てず、御父の栄光の中で、支え、導き、とりなしてくださることを、彼らが信仰の眼差しをもって理解したからです。

聖ルカは、使徒言行録の冒頭部でもイエスの昇天について語り、この出来事をイエスの地上の生涯と教会とを繋ぎ結びつける輪のようなものとして強調しています。ここで聖ルカは、弟子たちの目からイエスを覆い隠してしまう雲についても触れ、彼らが神の元に昇るイエスを観想している様子を記しています(使徒言行録1,9-10)。

すると白い服を着た2人の人が弟子たちに対し、天を見上げたままでいないで、天に昇るのを見たのと同じ有様で、イエスがまたおいでになるという確信を生活と証しの中で育むようにと諭します(使徒言行録 1,10-11)。これは、イエスの統治を観想することから、毎日の生活の中で福音を告げ、証しするための力を得なさいとの招きです。「観想すること、そして行動すること」、聖ベネディクトの「祈り、働け」にあるように、これらはどちらもわたしたちのキリスト者としての生活に必要なことです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、主の昇天は、イエスの不在をいうのではなく、イエスがわたしたちの間に新しい方法でおられることを意味します。昇天の前のように世界のある特定の場所におられるというのではありません。今や神の統治する世界において、イエスはあらゆる時と空間の中に存在し、わたしたちのすぐそばにおられるのです。

わたしたちの生活の中で、我々は決して一人ぼっちではありません。わたしたちを待ち、守ってくださるこの擁護者がおいでです。わたしたちは決して一人ではありません。十字架につけられ、復活した主がわたしたちを導いてくださいます。

そして、わたしたちと一緒に多くの兄弟姉妹たちが、沈黙のうちに隠れて、家庭や職場で、試練や困難、喜びや希望のうちに毎日の信仰を生き、わたしたちの擁護者、復活し天に昇られたイエス・キリストにおいて、神の愛の支配をわたしたちと共に世界に伝えているのです。









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