2013-03-30 16:47:36

受難の主日:ミサ説教(2013.3.24)


1.イエスはエルサレムに入城します。弟子たちは喜びのうちに、イエスのお供をします。イエスの前にマントは敷かれ、イエスの行った様々な奇跡が語られます。賛美の叫びが上がります「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(ルカ 19,38)。

群集、祝祭、賛美、祝福、平和。そこには、喜びの雰囲気が満ちあふれています。イエスは人々の心に、特に謙遜で、単純、貧しく、この世界では相手にもされないような、忘れられた人々の心に、たくさんの希望を呼び覚ましてくれました。イエスは人々の惨めさを理解し、神の憐れみのみ顔を示してくださいました。そして、人々の身体と心の病いを癒すために身をかがめられたのです。

これがイエスです。これがわたしたち皆を見つめるその心です。わたしたちの病い、わたしたちの罪を見つめる彼の心です。イエスの愛は大きい愛です。イエスはこの愛をもってエルサレムに入城し、わたしたち皆を見つめられます。美しく、光に満ちた光景です。イエスの愛の光、イエスの心の光、喜びと祝いの光です。

ミサの初めに、わたしたちもこの光景を繰り返しました。わたしたちも棕櫚を振りました。わたしたちもイエスを歓迎し、イエスのお供をし、イエスを友、兄弟、また王として、すなわちわたしたちの生活を照らす光り輝く灯台として、身近にわたしたちの間に感じる喜びを表現しました。イエスは神です。しかし、わたしたちと共に歩むために、身を低くしてくださいました。イエスはわたしたちの友、兄弟です。我々の歩みを照らしてくださいます。今日、わたしたちはこのようなイエスを受け入れたのです。

「喜び」、これが今日皆さんに言いたい第一番目の言葉です。皆さんは決して悲しい人であってはなりません。キリスト者は決して悲しい人ではあり得ません。決して気落ちすることがありませんように。

わたしたちの喜びは、物をたくさん持っているというようなことから来る喜びではありません。それは、一人のお方、イエスに出会ったということから生まれ出る喜びです。イエスはわたしたちの間におられます。イエスと共に、わたしたちは決して一人ぼっちではありません。難しい時にも、人生の歩みの中で解決できないような多くの問題や障害に遭遇したとしても、わたしたちは一人ではありません。

こうした困難な時に、いつも敵、悪魔がやってきます。しばしば天使の仮面をつけて。巧妙にわたしたちにその言葉をささやきます。耳を貸してはなりません。わたしたちはイエスについて行きましょう。イエスのお供をし、イエスに従いましょう。しかし、特にイエスは、わたしたちと共に歩み、わたしたちをその肩に担いでくださるのです。わたしたちがこの世界にもたらすべき喜び、希望は、まさしくここにあるのです。どうか希望を誰にも盗ませないでください。その希望は、イエスご自身がわたしたちにくださる希望なのです。


2.皆さんに言いたい2番目の言葉はこれです。なぜ、あるいはどのようにと、イエスはエルサレムに入城したのでしょうか。

群集はイエスを王として歓呼します(ルカ 19,39-40)。しかし、イエスはどんなタイプの王でしょうか。見てみましょう。ロバに乗っています。彼に従う随行員もいません。その権力のシンボルである軍隊にも囲まれていません。 彼を歓迎するのは、慎ましい単純な人々だけです。彼らはイエスのうちに何かもっとすごいことを見るセンスを持っている人々です。「この方こそ救い主だ」と見抜く信仰のセンスを持った人々でした。

イエスは、地上の君主、権力者、支配者たちが受ける栄誉を得るために聖なる都に入城したのではありません。それは、今日の第一朗読でイザヤ預言者が言っているように、鞭打たれ、侮辱され、軽蔑され、茨の冠をかぶせられ、棒で打たれ、緋色のマントを着せられるためであり、彼の王権は軽蔑の的となりました (イザヤ 50,6)。それは十字架を背負ってカルヴァリオに登るための、エルサレム入城だったのです。

わたしが言いたい2番目の言葉、それは「十字架」です。イエスは、十字架上で死ぬために、エルサレムに入城されます。神によれば、まさしくここ十字架上でイエスが王であることが輝き出るのです。イエスの王座は十字架の木だったのです。

ベネディクト16世が枢機卿たちに向けた言葉が思い出されます。「皆さんは貴族です。しかし十字架にかかられた王の貴族たちです。十字架こそ、イエスの王座であり、イエスはそれを自分のものとして抱きしめられたのです 」

なぜ十字架なのでしょう。なぜならイエスは自分自身の上に、すべての悪と汚れと世の罪、わたしたち皆の罪を引き受け、そしてそれをご自分の血で、神の愛、神の憐れみで洗い流してくださるからです。

わたしたちのまわりを見渡してごらんなさい。どれほどの悪の傷が人類を苦しめていることでしょう。
弱者を痛めつける戦争、暴力、経済闘争、また誰も持っていけず、結局全て残していかなければならない金銭に対する渇望など。

わたしの祖母は、我々子どもたちによく言っていました。「汗を拭く布にはポケットはついていませんよ」と。金銭、権力、分裂、人間の生命や大自然に対する犯罪。そしてわたしたちも各自よく知っている、自身の罪、神と隣人そして全被造物に対する愛と尊敬の欠如。

イエスは十字架上で、これらすべての悪の重みを感じました。そして、神の愛をもってそれらに打ち勝ち、その復活においてすべてに勝利したのです。これこそイエスが十字架という王座の上でわたしたちすべてのためにしてくれる善なのです。

愛をもって抱きしめられたキリストの十字架は、決して悲しみををもたらしません。それは必ず喜びをもたらします。救われた者たちの喜び、イエスがその死の日に実現したことをわたしたちもするのだという喜びに我々を導くのです。

3.今日、この広場にはたくさんの若者たちが集っています。この枝の主日が「青年の日」となってから28年が経ちます。 「若者たち」!そうです、これが今日の第3番目の言葉です。

親愛なる若者たち、皆さんがこの場所に行列しながら入ってくるのを見ました。イエスの周りに集って祝いながら、オリーブの枝を打ち振りながら、イエスのみ名を叫びながら、皆さんはイエスと共にいることの喜びを表現していました。

皆さん自身が、この信仰の祝いの重要な部分を占めているのです。皆さんはわたしたちに信仰の喜びをもたらしてくれます。そして、たとえ70歳、80歳であってもいつも若い心で信仰を生きなければならないことを教えてくれます。若い心!キリストと共にいるならば、心は決して老いることはありません!

しかし、わたしたちは皆、そしてあなたがたもよく知っています。われわれが従う王、そしてわたしたちと共にいてくださる王は、とても特別な王であると言うことを。それは、十字架に到るまで愛し、愛すること、仕えることを教えてくれる王です。

皆さん、イエスの十字架を恥じないでください。かえってその十字架を抱きしめなさい。なぜなら、自分自身を与えること、自分自身から出ることの中に、真の喜びがあり、キリストは神の愛をもって悪に打ち勝ったのだと皆さんは理解したからです。

あの巡礼用大十字架を世界の到るとことにもたらしてください。その十字架を「行ってすべての人々を私の弟子にしなさい」 (マタイ 28,19) というイエスの招きに答えて運んでください。このイエスの言葉は、今年の「青年の日」のテーマです。イエスはまさに十字架上で、人々や民族を分裂させる敵意の壁を打ち壊し、和解と平和をもたらしたのだと言うために、この十字架をどこにでももたらしなさい。

親愛なる友人たち、ヨハネ・パウロ2世やベネディクト16世に倣い、わたしも今日から皆さんと共に歩き始めます。次の世界青年の日大会はもうすぐそこです。来る7月、リオデジャネイロが楽しみです。ブラジルのあの大都市でお会いしましょう。皆さんの共同体の中で、特に霊的によく準備してください。この出会いが全世界にとって信仰のしるしとなりますように。

若者たちは、世界に向かって言わなければなりません。イエスに従うことは素晴らしいことです。イエスと共に歩むことは正しいことです。自分自身から出て、イエスをもたらすために世界の隅に、疎外された人々のところに行くということは良いことですと。

「喜び」「十字架」「若者」。これが、今日、皆さんに言いたかった3つの言葉です。聖母マリアの取次ぎを願いましょう。聖母は、キリストとの出会いの喜び、十字架の下に留まるための愛、この聖週間、また一生を過ごすための、心の活力と若い心をわたしたちに教えてくださるのです。アーメン。








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