2013-02-27 13:35:21

「十字架上の主のもとに新しい方法で留まる」ベネディクト16世、最終の一般謁見


教皇ベネディクト16世は、バチカンで27日、在位中最後の一般謁見を行われた。

翌日28日に引退を控えたベネディクト16世の言葉と祝福を求めて、バチカンの聖ペトロ広場と周辺には、世界各国からおよそ15万人の巡礼者が詰め掛けた。

寒く曇りがちだった数日の気候とは打って変わり、この日のローマは早くも春の日差しと温かさを感じさせた。青い空の下、教皇は白いジープで、会場を埋め尽くす人々の間を一巡された。

人々は拍手や歓声、歌や演奏、手作りの横断幕やプラカードなど、思い思いの方法で、ベネディクト16世に感謝を表し、退位を惜しむと共に、教会を思うその愛と勇気に尊敬を示していた。

聖書朗読に続き、教皇はいつも行なわれるカテケーシス(教会の教えの解説)の場で、この日は退位を前にした特別な講話を行われた。

教皇は登位と共にご自分に与えられた重責と、常にあった神の導きを振り返りながら、これまでの皆の支えに深い感謝を述べられた。

教皇は、引退した後も私人としての生活に戻ることはないと述べ、祈りの生活を通して、「十字架を置き去りにすることなく、十字架上の主のもとに新しい方法で留まり続けたいと思います」と表明された。

「神はご自分の教会を導かれ、いつも、困難な時もそれを支えてくださいます」と強調された教皇は、「この信仰の視点を決して失ってはいけません。それは教会と世界の歩みにとって唯一、真のビジョンだからです」と説かれた。

「主が近くにおられ、わたしたちを見棄てず、その愛で包んでくださるという、喜びに満ちた確信が、わたしたち一人ひとりの心にいつもありますように」と、人々の信仰を最後まで励まされた。

全教会と信者たちに対する教皇の思いのこもった言葉ごとに、会衆は拍手で応え、講話の最後には椅子から立ち上がった参加者たちの歓声と拍手が数分間続いた。

皆に祝福をおくられた教皇は、信者たちの寄せる親愛の気持ちを、非常に穏やかな笑顔で受け止められていた。

教皇の講話は次のとおり。

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尊敬する司教と司祭たち、
要人各位、
親愛なる兄弟姉妹の皆さん

わたしの教皇在位中、最後にあたるこの一般謁見にこれほど多く参加してくださった皆さんに感謝します。

先ほど聞いた聖書朗読箇所の使徒聖パウロのように、わたしもまた、教会を導き育て、御言葉の種を蒔き、ご自分の民の中に信仰を養われる神に、特別に感謝しなければならないと心に感じています。

今、わたしの心は世界の全教会に広がります。そして、教皇職にあったこの日々、主イエス・キリストにおける信仰と、教会という神秘体をめぐり、それを愛のうちに生かしてくれる慈愛(カリタス)、天の祖国に向けてわたしたちを満ち満てる命に開き導く希望について、神から受け取った福音に感謝します。

あらゆる出会い、旅行、司牧訪問で得るすべてのものを、祈りの中で、神のみ前に伝えたいと思います。わたしたちが神のみ心を霊によるあらゆる知恵と理解をもって十分に知り、主とその愛にふさわしい者としてふるまい、善い業を行なって実を結ぶことができるよう(コロサイ 1,9-10)、すべてを祈りにおいて主に託したいと思います。

今、わたしの心は大きな信頼に満ちています。なぜなら、わたしたち皆が知っているように、福音の真理のみ言葉は教会の力、教会の命だからです。信者たちの共同体が真理のうちに神の恵みを聞き、受け入れ、慈愛に生きるところにはどこでも、福音は清め、刷新し、実を結びます。これがわたしの信頼、わたしの喜びです。

およそ8年前の4月19日、わたしが教皇の責務を負うことを受諾した時、その後わたしを常に支えることになったこの固い確信を得ました。その時、これはわたしがこれまでも言ってきたことですが、こうした言葉が心に響きました。「主よ、わたしに何をお望みですか?あなたがわたしの肩に負わせるのは、非常に大きな重荷です。しかし、あなたがお望みなら、お言葉どおり、網を降ろしましょう。あなたはきっとわたしを導いてくださるでしょう。」

そして、主はわたしを実際に導かれ、わたしのすぐそばにいてくださいました。わたしは主の存在を毎日感じることができました。

それは、教会の歩みの上で、喜びと光の時もあれば、決して容易ではない時もある期間でした。わたしはガリラヤ湖に浮かんだ船の中にいる聖ペトロと使徒たちのように感じていました。主は、多くの晴れた、穏やかな風の日を与えてくださり、こうした時は漁は大漁でした。どの時代の教会の歴史にもあったように、水面が荒れ、逆風が吹いた時もありましたが、そうした時は主は眠っておられるかのようでした。

しかし、わたしは、この船の中に主がいつもおられること、教会の船はわたしやわたしたちのものではなく、主のものであり、主はご自分の船を沈ませはしないということを常に知りました。船を導くのは主なのです。もちろん主が選ばれた人々を通してのこともありますが、それは主がそう望まれたからなのです。これは何があっても消すことのできない、一つの確信です。それゆえに、わたしの心は今日神への感謝でいっぱいです。神は教会全体とわたしに、その慰めと光、愛を欠かすことがなかったからです。

今、わたしたちは「信仰年」にあります。この「信仰年」は、神に重要性を置かない傾向のあるこの時代に、まさに神に対するわたしたちの信仰を強めるために、わたしが望んだものです。主におけるゆるぎない信頼を新たにし、子どものように神のみ腕に自分自身を任せるよう、すべての人に招きたいと思います。神のみ腕は、いつもわたしたちを支え、たとえ労苦の中にあっても、日々の歩みを必ずや支えてくれることでしょう。

神から愛されていることを、一人ひとりに感じてもらいたいと思います。神はその御一人子をわたしたちのために差し出され、その無限の愛をわたしたちに示してくださったのです。

皆にキリスト者である喜びを感じて欲しいと願います。毎朝繰り返すべき、美しい祈りがあります。それは次のような祈りです。「わたしの神よ、あなたを礼拝し、心からあなたを愛します。わたしを創造し、キリスト者にしてくれたことを感謝します」。

そうです、わたしたちは信仰の恵みに心から満足しています。これこそ最も貴重な、誰もわたしたちから奪うことのできない宝です!毎日、祈りとふさわしいキリスト教生活をもって、主にこの恵みを感謝しましょう。神はわたしたちを愛しています。しかし、神も、わたしたちがご自分を愛するよう待っておられるのです!

わたしが今、感謝したいのは、神だけではありません。教皇は、聖ペトロの船を導くことにおいて、決して一人ではありません。たとえ、彼がその一番の責任を負っているとしてもです。わたしは教皇職の喜びと苦しみを負う中で、決して一人ぼっちと感じたことはありません。主は、わたしのそばに多くの人々を置いてくださいました。彼らは寛大さと、神と教会に対する愛をもって、いつもわたしを助け、そばにいてくれました。

何よりもまず、兄弟なる枢機卿の皆さんに感謝したいと思います。皆さんの英知、助言、友情は、わたしにとって常に貴重なものでした。国務長官をはじめ、この年月、いつも忠実にわたしの傍らにあったすべての協力者たち、国務省と全教皇庁の皆さん、信仰の精神をもって聖座の各部署で影になり日向になり沈黙の中に謙遜に奉仕してくれたすべての職員たち、彼らはわたしにとって信頼のおける確実な支えでした。

わたしの教区、ローマの教会に、特別な思いを向けたいと思います!ローマ教区の司教、司祭、修道者、神の民全員を決して忘れることはできません。司牧訪問、集会、謁見、旅行などにおいて、いつも彼らの大きな関心と愛情をわたしは感じ取っていました。そして、わたし自身も、すべての人、一人ひとりを分け隔てなく、すべての牧者の心にある司牧的愛、特に使徒聖ペトロの後継者、ローマの司教の愛をもって、愛することを望みました。わたしは毎日、父の心で、皆さん一人ひとりのために祈ってきました。

わたしのこの挨拶と感謝が、すべての人々に届きますように。教皇の心は全世界をも包み込むものです。一つの大きな家族としての国々の集まりを体現する、駐バチカン外交団の皆さんにも感謝を表したいと思います。また、よいコミュニケーションのために働く、マスメディアの方々にも、その大切な奉仕のために心から感謝します。

ここでわたしは、この数週間、わたしに思いや、友情、祈りの、感動的なしるしを示してくださった世界中の多くの人々に、心の奥から感謝を述べたいと思います。そうです、教皇は決して一人ではありません。今、わたしはそれを心に触れる、これほど大きな形で、再び実感しています。

教皇は、彼に親しみを持つすべての、非常に多くの人々のものです。わたしは確かに世界中の要人、国家元首、宗教指導者、文化人たちから手紙を受け取ります。しかし、また、普通の人々からの非常に多くの手紙をも受け取ります。それらは彼らの心を率直に記し、教会において、キリスト・イエスと共にいることから生まれる愛情を感じさせるものです。これらの人々がわたしに手紙を書く時、例えば高貴で、偉大な、知らない人に宛てるようには書きません。愛情にあふれた家族的な絆という意味での、兄弟姉妹、子どもたちのように、わたしに書いてくれるのです。

ここで教会が何であるかに触れることができます。教会は、宗教や人道を目的とした組織や協会ではなく、それは生きた体、わたしたちを一つにする、イエス・キリストの神秘体における兄弟姉妹の交わりなのです。こうした形で教会を体験すること、その真理と愛の力をまさに実感すること、多くの人が教会の衰退を語るこの時代において、それは喜びの理由なのです。

ここ数ヶ月、わたしは体力の減少を感じ、わたしのためでなく、教会のためになる、より正しい決断を取ることができるよう、祈りの中で神に何度も問いました。わたしはこの決断を、その重大さ、またその新しさを十分自覚した上で、しかし深い平安をもって行ないました。教会を愛するとは、自分自身ではなく、教会のためを常に念頭に、時には難しく苦しい選択をする勇気を持つことでもあります。

ここでまた、2005年4月19日に戻ることを許してください。この決意の重大さは、まさにその登位以来、主から常に永遠に与えられた任務のためでもあるのです。「常に」、これを教皇職は一切の私的部分がないとも解釈できます。教皇は、常に、完全に、すべての人と教会全体のものなのです。教皇の生活からは、いわば、完全に私的な面が取り去られているのです。わたしはそれを体験することができ、今まさにそれを体験しています。人は自分の人生を与える時、それを受け取ることができるのです。

主を愛する多くの人が聖ペトロの後継者を愛し、教皇に愛着を持ってくれると、先に言いました。教皇は本当に世界中に兄弟姉妹、息子や娘たちを持っています。そして、彼らの交わりに囲まれて安心を感じるのです。なぜなら、教皇はもう自分自身には属さず、彼は皆のものであり、皆が彼のものであるからです。

「常に」また「永遠に」、私人に戻ることは無いでしょう。わたしの現職から引退するという決意については、これを撤回することはありません。わたしは一私人としての生活や、旅行・集会・レセプション・会議の生活には戻りません。わたしは十字架を置き去りにすることなく、十字架上の主のもとに新しい方法で留まり続けたいと思います。教会統治のための職務権限をもう持つことはありませんが、祈りの奉仕のうちに、いわば聖ペトロの囲いの中に残ります。わたしがその名から教皇名をいただいた聖ベネディクトが、これにおいて、わたしにとっての大きな模範となるでしょう。聖ベネディクトは、生涯を通して神の業に完全に属した生き方をわたしたちに示してくれました。

これほど重大な決意を、敬意と理解をもって受け入れてくださったことに対しても、皆さん、一人ひとりに感謝しています。わたしは教会の歩みを、今日まで主とその教会にお捧げしたのと同様の献身を常にもって、これからも祈りと観想を通して見守り続けたいと思います。皆さんにわたしを神の御前で思い出してくださるようお願いします。また、これほど重大な課題のために召されている枢機卿たちのため、そして特に使徒ペトロの新しい後継者のために祈ってください。新しい教皇を主が光と力と霊をもって支えてくださいますように。

神の母であり、教会の母である、おとめマリアの取次ぎを祈りましょう。わたしたち一人ひとりと全教会共同体を見守ってくださるよう、深い信頼をもって、聖母にわたしたちを託しましょう。

親愛なる友の皆さん!神はご自分の教会を導かれ、いつも、困難な時もそれを支えてくださいます。この信仰の視点を決して失ってはいけません。それは教会と世界の歩みにとって唯一、真のビジョンだからです。主が近くにおられ、わたしたちを見棄てず、その愛で包んでくださるという、喜びに満ちた確信が、わたしたち一人ひとりの心にいつもありますように。ありがとう!








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