2013-01-31 18:26:05

「全能の父である神」を観想、教皇一般謁見


教皇ベネディクト16世は、バチカンで30日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

教皇は「信仰年」をより有意義に過ごすためのカテケーシス(教会の教えの解説)の一環として、先週から「信仰宣言」の考察に入られた。

この日は、信仰宣言の冒頭「天地の創造主、 全能の父である神を信じます」における「全能の父である」という部分に注目。「父」であり「全能」である神を深く観想し、信頼を持って自分たちをその神の愛に託すよう呼びかけられた。

家庭の崩壊や、生活で仕事の占める割合の増加、日常の内部に浸透するマスメディアの影響などにより、今日、父親の役割について語ることは決して容易ではないと教皇は指摘。父親との交わりや信頼が失われ、父と子の安定した関係が様々な要因によって妨げられる状況に、御父としての神のイメージに対しても、参考となる対象を見出すことが難しくなっていると述べられた。

しかし、こうした中にも、聖書は真に父である神の姿を語り、特に福音書は、人類の救いのために御一人子を差し出すまでに愛される父としての神の御顔を示していると話された教皇は、わたしたちを愛をもって見守り、御言葉と教え、恵みと聖霊を与えてくださる父なる神の姿を聖書の中に見出すよう招かれた。

種も蒔かず、刈り入れもしない空の鳥を養い、働きもせず、紡ぎもしない野の花を装ってくださる天の父、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる」天の父、放蕩息子に走りより抱擁する慈愛に満ちた父、天からのまことのパンを与え、永遠の命につながる生ける水をくださる父など、教皇は福音書の中でイエスが伝える御父の姿を考察。

「主イエスにおいて、その御父の御顔は完全に表れ、イエスを知ることで御父を知ることができる」、また、御父は聖霊の働きのもとにわたしたちが御子を信じることを望まれ、わたしたちを神の子とする霊を与えてくださったゆえに、わたしたちは神を「アッバ、父よ」「わたしたちの父よ」と呼ぶことができると話された。

次に教皇は「全能」である神を観想。

十字架上のイエスを見て、どうして神が全能だと考えることができようかと人々が思うように、神の全能は、問題の解決や、困難な状況への介入、敵に対する勝利など、人間が考え望むようには行なわれないゆえに、人は苦しみや困難を前に「全能の父である神」を信じることができなくなってしまうと述べられた。

しかし、神のなさる方法や考えは、我々のそれと異なるのと同様、神の万能もまた自動的あるいは独断的な力として表されず、愛と慈しみ、赦し、回心への疲れを知らぬ呼びかけ、忍耐と柔和、一見して弱い態度の中に自由に示されると説かれた。

そして、教皇は「真に力ある者だけが悪に耐え、憐れみ深くあり、愛の力を完全に行使することができる」、「すべてのものを創造された神は、そのすべてを愛されることで力を示され、わたしたちの回心を忍耐強く待ち、わたしたちをその子とすることを望まれる」、「愛の全能は、世の権力ではなく、それは完全な恵みそのものであり、神の御子イエスは罪人のために命を捧げることで御父の全能を世に示した」と話された。








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