2012-11-14 18:34:00

特集:教皇の説教 ロレート聖母巡礼聖堂のミサで


教皇ベネディクト16世は、10月4日、イタリア中部マルケ州ロレートの聖母巡礼聖堂を訪問された。

ベネディクト16世はこの訪問を通して、ちょうど50年前、第2バチカン公会議開催を前に福者教皇ヨハネ23世が同巡礼聖堂を訪れた出来事を思い起こすと共に、公会議開催50周年を機に今年10月から行なわれる「信仰年」と「新しい福音宣教をめぐるシノドス(世界代表司教会議)」のために祈られた。

教皇のロレートでのミサの説教は以下のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

福者教皇ヨハネ23世は、第2バチカン公会議開幕1週間前の1962年6月4日、公会議を聖母マリアの保護に託すため、この聖母の家を巡礼しました。

聖母マリアに子としてのあつい信心を持っていたヨハネ23世は、次のように祈りました。

「今日、全司教団の名において、「司教たちの助け手」、母なるあなたに、ローマの司教であるわたしのため、また全世界の司教たちのためにお願いいたします。かつて使徒やキリストの最初の弟子たちが最後の晩餐の高間に入った時のように、公会議の会議場である聖ペトロ大聖堂に皆が入りながら、キリストへの愛に心を一つにし、すべての人々の救いのために自分自身を捧げ生きる覚悟を持てるよう、そのお恵みをどうかお取次ぎください。
こうして神の恵みは、あなたの母としてのお取次ぎによって、第21回公会議に豊かに与えられ、教会のすべての子らに新たな熱意と、寛大な心、固い決意を豊かに注ぎ込んだと言われることでしょう」。 (AAS 54 [1962], 727)

あれから50年という年月を経た今、神のみ摂理によって、あの忘れがたい教皇様の後を継ぎ、聖ペトロの座に着いたわたしも、神の御母に教会の2つの大切な行事を託すために、巡礼者としてここにやって来ました。一つは1週間後の10月11日に始まる、第2バチカン公会議開開幕50周年を記念する「信仰年」、そしてもう一つは「キリスト教信仰の新しい宣教」をテーマとした、シノドス「世界司教会議」です。

「信仰年」の開催を告げる使徒的書簡にも記したように、「この信仰年を通して、わたしは、主が与えてくれるこの霊的な恵みの時にあって、信仰という貴重な神からの贈り物を記念するため、全世界の司教たちが聖ペトロの後継者に一致するよう招きたいと思ったのです」。(Porta fidei, 8)

まさしく、このロレートで聖母マリアに倣いたいと思います。聖母マリアは「信じた」が故に「幸いな方」と宣言されています。(ルカ 1,45)
聖母マリアの地上での家の上に建てられたこの巡礼聖堂は、主の天使が受肉の神秘の偉大なお告げを携えて、聖母マリアのもとに遣わされたこと、そして、それに対して聖母が与えた答えなどを思い出させるものです。

このつつましい住まいは、神の御言葉が人となったという受肉の神秘と、主のはしためマリアが、神が人の間に住まわれるための手段となったという、わたしたちの歴史上最大の出来事を具体的に証ししています。 (ヨハネ 1,14)

マリアは完全に神の御旨に従い、自分の身体を捧げながら、彼女自身が神の子が住まわれる「場」となったのです。

ここで詩編の言葉を思い起こすことができます。「ヘブライ人への手紙」によれば、キリストは、この言葉をもって御父に言うことによって、地上の生活を始めています。「あなたは、いけにえも捧げ物も望まれませんでした。かえって、わたしのために体を備えてくださいました。そこでわたしは言いました。『ご覧ください。わたしは来ました。神よ、あなたのみ旨を行うために』。」 (ヘブライ10,5.7)

マリアも同じような言葉を、彼女についての神のご計画を明かす天使の前で言っています。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」。(ルカ1,38)

御父の愛の唯一のご計画の中で、マリアの意志はその子の意志と一致します。彼女の中で、天と地が、神なる創造主とその被造物が、一つになるのです。神は人間となられ、マリアは主の「生ける家」、いと高きお方が住む「神殿」となりました。

福者ヨハネ23世は、50年前、ここロレ-トで「受肉の神秘と贖いの目的である、天と地の一致」について考察し、この神秘を観想するよう招きました。そして、公会議のその目的は、あらゆる形の社会生活の中にキリストの受肉と贖いの神秘を広めることにあると言い続けました。

今日、この招きは、特別な力をもって響きわたります。経済的な分野ばかりではなく、社会のあらゆる分野にわたっている現在の危機にあって、神の御子の受肉は、神にとって人間がどれほど重要であり、また人間にとって神がどれほど重要であるかを示しています。しかし、人間は連帯や愛よりも、自分の利己主義に、価値よりも物質に、存在よりも所有に負けてしまいます。

人間が人間らしくなるためには、神に立ち戻る必要があります。 神と共にいるなら、困難な時、危機の時にあっても、希望を失うことはありません。受肉の神秘は、わたしたちが決して一人ぼっちではなく、神が人間性の中に入ってこられ、わたしたちと共におられると言っています。

しかし、神の子が「生ける家」、神殿である、マリアの中に住まわれるということは、もう一つの事を考えさせます。神が住まわれる所では、わたしたちは皆が「家」にいます。また、キリストが住まわれる所では、その兄弟姉妹はもう誰も外国人ではありません。

キリストの母であるマリアは、わたしたちの母でもあります。彼女は、その家の扉をわたしたちに開き、彼女の御子のみ旨の中にわたしたちを導き入れます。この世においてわたしたちにこの家を与え、すべての人々を兄弟姉妹とし、一つの家族として一致させるのは信仰です。

マリアを眺めながら、わたしたちは自問しなければなりません。わたしたちは、本当に主に自分自身を開こうとしているのでしょうか。わたしたちの生命を、主のための住まいとして、提供しようとしているのでしょうか。あるいは、主の存在は、わたしたちの自由の制限になるのではないかと、恐れてはいないでしょうか。また、わたしたちだけのものとして、自分の生命の一部を取っておこうとしているのではないでしょうか。

しかし、わたしたちの自由を解放するのは、まさしく神ご自身です。自分自身の中に閉じこもること、権力欲、所有欲、支配欲から神はわたしたちを解放し、完全な意味での自己実現に、人々に自分自身を提供し自分自身を分け与える愛に、開いてくださいます。

信仰は、わたしたちを生命の道に住まわせるだけではなく、歩かせてくれます。このことに関しても、ロレートの聖なる家は、重要な教えを保っています。ご存知のように、この聖なる家は、道路の上に置かれました。わたしたちの常識から言えば、大変変わった現象だと言えましょう。家と道路はお互いに相容れない存在のように思われます。

実際、この一風変わった事実は、この家の特殊なメッセージを伝えています。 この家は、個人の家ではありません。一人の人や、一つの家族に属するものではなく、すべての人々に開かれた家、言うなれば、わたしたち皆の道の上におかれた家なのです。

ここロレートで、わたしたちは自分たちが住むために留まるための一つの家、そして同時に、わたしたちを歩ませ、皆が、別の住まいに向けて絶えず歩み続けなければならない、旅人であることを思い起こさせる家を見出します。私たちが目指すべき最終的な住まい、それは救われた人類が神とともに住まう神の家、永遠の都市なのです。 (使徒言行録 21,3)

福音書のお告げのエピソードの中に、皆さんにお話したいもう一つの重要な点があります。それは、わたしたちの心を打たずにはおかない観点です。

神は人間に承諾を求めます。神は人間を自由なものとして創造しました。神はご自分の被造物に、完全に自由に答えることを願い、マリアからの返事を待ちました。

婦人よ、天と地が待ち望んでいるあの返事を与えてください。すべての人々の王、そして主として、神はあなたの美しさを見たいと思っています。そしてあなたの承諾の返事を熱く望んでいるのです。

立ち上がりなさい。走りなさい。開きなさい。信仰をもって立ち上がり、あなたの贈り物を持って急ぎなさい。そして、心からの賛同をもって、神に自分を開きなさい。

神は人となるために、マリアの自由な承諾を求めます。もちろん、マリアの承諾の「はい」は、神の恵みの結果です。しかし、恵みは自由を取り去りはしません。反対に、恵みは自由を創造し、それを支えます。信仰は人間から何も取り去りはしません。かえってその完全で決定的な実現をもたらすのです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、福者教皇ヨハネ23世を記念し、摂理的にまさしく「生ける福音」であるアッシジの聖フランシスコの祝日に行われたこの巡礼で、平和と安定を求めるこの時代が体験しているすべての困難、多くの家族が将来に不安を抱きながら見つめているすべての問題、未来に対する若者たちの願い、愛と連帯の行いを期待している人々の苦しみを、神の聖なる御母に託したと思います。

イエスに耳を傾けた「はい」の御母、イエスについてお話しください。信仰の道において、イエスに従うあなたの歩みについて、語ってください。そして、すべての人々がイエスを受け入れ、神の住まいとなり、イエスを述べ伝えるために、わたしたちをお助けください。アーメン。








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