2012-09-25 16:53:41

「中東のキリスト教徒のために祈り続けよう」教皇、日曜の集い


教皇ベネディクト16世は、カステルガンドルフォで23日、日曜正午のアンジェラスの祈りを信者と共に唱えられた。

巡礼者への挨拶で、先週のレバノン司牧訪問を思い起こされた教皇は、祈りを通してこの訪問を支えてくれたすべての信者たちに感謝の言葉を述べられた。

そして、中東のキリスト教徒のため、また同地の平和と宗教間の安定した対話のために祈り続けて欲しいと皆に呼びかけられた。

また教皇は、昨日フランス・トロワでとり行われたルイス・ブリソン神父(1817-1908)の列福式に言及。聖フランシスコ・サレジオ・オブラート会(男子会および女子会)の創立者である新福者の列福の喜びをトロワ教区や同会をはじめすべての関係者と分かち合われた。

集いの説教で教皇は、この日のミサの福音朗読箇所、マルコ福音書9章30-37節を取り上げられた。

エルサレムへの旅、すなわち十字架上で示されるその使命の頂点に向かう旅の中で、イエスはご自分の最期について弟子たちにはっきりと語り始める。

イエスは言う。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(マルコ9,31)。しかし「弟子たちはこの言葉がわからず、怖くて尋ねられなかった」(32)。

教皇はここにイエスと弟子たちとの間に横たわる深い内的な距離を指摘。

弟子たちが師を理解できない、または表面的にしか理解していない状態を示すものとして、信仰を言い表したばかりのペトロが、イエスがご自分の死と復活を初めて予告すると、それをいさめ始める(マタイ16,21-22)、イエスが2度目に受難の予告をした後、弟子たちは誰が一番偉いかを議論し合っている(マルコ9,34)、イエスが3度目に死と復活を告げた後、ヤコブとヨハネが、イエスが栄光を受ける時、その左右の座にすわらせて欲しいと頼んでいる(マルコ10,35-40)など、イエスへの無理解を物語るいくつかのエピソードを挙げられた。

「神の論理は、常に人間の論理とは異なる」と教皇は述べ、「わたしの思いはあなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる」というイザヤ書の一節(55,8)を引用。

それゆえ、主に従うとは、考え方・生き方の転換、神に心を開き、神に耳を傾けることを必要とする、常に深い「回心」を人間に要求するものであると説かれた。

神と人間との違いを考える上での鍵として教皇は「傲慢」の有無に注目。神は完全に満ち満ちた存在であるがゆえに、神に傲慢は無く、神は愛するため、命を与えるためにすべてを差し出されるが、人間には傲慢が深く巣くっており、常にそれに注意し、それから清められる必要があると話された。

わたしたちはその小ささのために、自分を大きく一番に見せようとするが、それに対し本当に偉大である神は、自分の身を低くし、一番最後の者となることを恐れないと述べた教皇は、皆がイエスに忠実に従いながら愛と謙遜の道を歩めるよう、神と完全に一致して生きた聖母マリアに取次ぎを祈られた。








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