2012-07-31 18:05:46

「パンの奇跡」をテーマに説教、教皇、日曜正午の集いで


教皇ベネディクト16世は、カステルガンドルフォで29日、日曜正午の祈りを唱えられた。

集いの説教で教皇は、この日のミサ中朗読された、ヨハネ福音書6章、イエスがパンを増した奇跡のエピソードを取り上げられた。

このエピソードで「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えた」イエスの行為に、「最後の晩餐」の場面を重ね合わせた教皇は、「パンを裂く」「感謝を捧げる」という強調されるテーマは、世の救いのためのキリストの犠牲、聖体を想起させるものであると話された。

実際、福音記者ヨハネは過越祭が近いことを(ヨハネ6,4)示しているように、眼差しは次第に愛の賜物である十字架と、その贈り物を永遠にとどめるための聖体に向けられていくと、教皇は指摘。「キリストは人間のための命のパン」であると同時に、「聖体は人と神との永遠の偉大な出会い」であり、「そこで主はわたしたちの食べ物となられ、わたしたちを主と似た者とするために、ご自分を与えられるのである」と述べられた。

また、教皇はイエスのこのエピソードに登場する、パン5つと魚2匹を持った少年(ヨハネ6,9)の存在に目を向けられた。大勢の人に食べさせなくてはならないという困難の中で、そのわずかな食糧はすべて差し出されるが、この奇跡は何もないところから生まれたのではなく、一人の少年が携えていたものをつつましく分け合うことから生まれたことに、教皇は注意を促された。

「イエスはわたしたちが持っていないものを求めず、もし一人ひとりが持っているそのわずかなものを差し出すならば、いつでも新たな奇跡を行なうことができると教えておられる」、「神はわたしたちの小さな愛の業を増やし、その賜物にわたしたちを参与させてくださる」と教皇は説かれた。

奇跡に驚いた群衆は、イエスの中に新しいモーセを見たが、その理解はパンを食べて満腹したという物質的なレベルにとどまるものであり、イエスは「人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再び一人で山に退かれた」(ヨハネ6,15)。

教皇は、イエスはこの世で権力を行使する王ではなく、人に奉仕し、人の前に身を低くする王であり、その奉仕によって物質的空腹のみならず、人生の迷い、意味・真理の空腹、神に対する渇きをいやす存在であると話された。

ミサ聖祭に忠実に自覚をもって参加することで、パンだけではなく、キリストの愛と真理によって養われることの大切さを再発見できるよう、教皇は祈られた。

また同時に、すべての人が尊厳ある生活を送るために毎日のパンが欠けることのないよう、暴力でなく愛の分かち合いによって不平等の壁が打ち破られるよう、教皇は皆を祈りに招かれた。








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