2012-04-06 17:54:20

聖木曜日:「主の晩餐」の教皇ミサ「神との一致の中に人は自由を得る」


聖木曜日の5日午後、教会暦は「聖なる過ぎ越しの3日間」に入り、復活祭に向けて典礼は1年の中でもその頂点を迎えた。

教皇ベネディクト16世は、伝統に従い、ローマ教区の司教座聖堂であるラテランの聖ヨハネ大聖堂で「主の晩餐」のミサを捧げられた。

「主の晩餐」のミサは、キリストが十字架上での受難を前にした最後の晩餐の中で、聖体とミサ聖祭、司祭職を制定したことを記念する。ミサの中では、キリストが最後の晩餐の前に、弟子たちの足を洗い、互いに愛し奉仕し合うことを自ら模範として示したことを思い起こす「洗足式」が行なわれる。

教皇は説教の中でイエスのゲツセマネでの出来事を観想しながら、「この盃をわたしから遠ざけてください。しかし、わたしの望みではなくあなたのみ旨が行われますように」と、試練を前に恐れ苦悶する人間的な意志を、御父の意志にゆだねるイエスの従順を見つめられた。

そして、人間はしばしば自分の意志だけに沿う状態を自由と考え、神を自由の妨げと見なすが、イエスはオリーブ山の祈りで従順と自由の間にある偽りの対立を取り除いていると指摘。人は神と一致し、真理の中にある時のみ、真に自由になると説かれた。

続く「洗足式」で、教皇はローマ教区の司祭12人の足を洗われた。

このミサで集められた献金は、シリアの難民の人道支援に当てられる。

主の晩餐のミサ中の教皇の説教は以下のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

聖木曜日は、輝かしい聖体の秘跡の制定の記念日だけではなく、オリーブ山上でのイエスの苦悩と暗闇の体験、孤独、遺棄、ユダの裏切り、聖ペトロの否認、ユダヤ人衆議会での訴えと裁判、ピラトに代表される異邦人への引き渡しなど、暗い部分の記念日でもあります。今日この時に、わたしたちの救いの神秘に関わるこれらの出来事の意味をより深く理解したいと思います。

イエスは夜の闇の中に出て行きます。夜の闇は、何もかも見えず、誰かれの区別もつきにくい、コミュニケーションの欠如の象徴でもあります。真理を覆い隠す夜の闇は、昼間の光の中では十分に活動できない悪が活躍するための好条件にもなります。イエスは光そのもの、真理そのものです。交わり、純粋さ、善意そのものです。イエスは夜の闇の中に入っていきます。夜の闇は死のシンボル、生命の喪失のシンボルでもあります。イエスは人類の歴史の中に神の新しい日を開くために、夜の闇の中に入っていきます。

この時、イエスはイスラエルの解放と贖いの詩編を弟子たちと共に歌いました。エジプトでの最初の過越し、解放の夜を思い起こさせる詩編です。

イエスは常にそうしていたように、その後、一人で子として父と語るために離れて行きます。しかし、この時はいつもと違い、たった一人ではなく、自分のそばにペトロとヤコブとヨハネの3人の弟子たちがいることを望みました。彼らはキリストの変容において、神の栄光を目の当たりにし、律法と預言者を代表するモーセとエリアの間にいるキリストを見た弟子たちです。変容の時、キリストは彼らとエルサレムへのご自分の入城について語り合っていました。

イスラエルのエジプトからの脱出は、神の民の解放と逃亡の出来事でした。弟子たちは、イエスのゲツセマネの園でのドラマの証人となります。それは極限に達するへりくだりの出来事でしたが、同時に、イエスがもたらそうとしていた完全な自由と新しい生命に到達するために、通らなければならない関門でもありました。

イエスが最も厳しい状況にあって、人間的な支えを期待した弟子たちは、キリストの苦しみにも関わらず、すぐに寝入ってしまいます。しかし、彼らは眠気の中でイエスの祈りの言葉のいくばくかを聞き取り、イエスの行動を観察していました。そしてそれは彼らの心に深い印象を刻み付けました。彼らはここで見聞きしたことを後世のキリスト者たちに絶えず伝え続けました。

イエスは神に親しく「アッバ、父」と呼びかけます。しかし、このアッバという言葉は、通常の父をさす言葉ではなく、子どもが自分の父親を呼ぶ時の言葉です。イエスはこの時、天の御父を最も親しみを込めた名で呼ぶのです。まさしくイエスは神の子、「神の幼子」でした。父なる神と最も深く強い「交わり、コミュニケーション」の中にある存在でした。

福音書の中で、最もキリストの人となりを特徴的に表現している要素は、一体何でしょうか。それはイエスと神との関係にあるといえましょう。

御父と共にあるということ、これこそイエスの人となりの中心です。わたしたちはキリストを通して真の意味で神を知ることができます。聖ヨハネは「神を見た者は誰もいない」と言っています。「御父の懐にいる方、この方が神を啓示するのです」(1,18)。

今、わたしたちは神をあるがままに知ります。神は父です。わたしたちが完全に信頼を寄せることができる絶対的な善意そのものです。

聖ペトロの思い出を書き記したといわれるマルコの福音書は、イエスが神をアッバと親しく呼びかけた後、「あなたにはすべてが可能です」と付け加えています(14,36)。

善意そのもの、絶対的に善いお方は、また同時に全能のお方でもあります。その力は善意であり、その善意は力なのです。 神に対するこの絶対の信頼を、わたしたちはオリーブ山上でのイエスの祈りから学ぶことができます。

イエスの祈りの内容を考察する前に、イエスが祈りの最中、どのように行動したか、福音記者たちの記述に注意を向けてみましょう。マタイとマルコは、彼は「地にひれ伏した」と伝えています (マタイ26,39; マルコ14,35)。この所作は完全な恭順を意味します。ローマ典礼は、この動作を聖金曜日の儀式の中に保存しています。聖ルカは、イエスはひざまずいて祈っていたと言っています。

「使徒言行録」の中で、聖ルカは、ステファノや、ペトロ、そしてパウロなど、聖人たちも様々の場でひざまずいて祈ったと語っています。こうして聖ルカは初代教会におけるひざまずく祈りの小さな歴史を残しました。キリスト教徒たちはひざまずいて祈ることによって、オリーブ山上でのイエスの祈りの中に入っていくのです。悪が横行するこの世界にあって、わたしたちキリスト教徒は、神の子として、神の栄光の前にひざまずくことによって、神の神性を認め、その所作において、神は必ず勝利するとのわたしたちの信頼を表現するのです。

イエスは御父と戦います。彼は自分自身とも戦います。わたしたちのために戦います。死の力を前にしての苦悩を体験します。死を前にして、生きとし生けるものが感ずる恐れを経験します。イエスにおいては、それは単なる恐れではありません。さらに奥深い何かです。彼はその先に、彼が飲み干さなければならないカリスの中に、あらゆる悪、罪、欺瞞、汚れを見通すのです。イエスはわたしを見ます、そしてわたしのためにも祈るのです。こうしてイエスの恐ろしい苦悩は、救いの実現のための本質的な要素となります。

「ヘブライ人への手紙」は、オリーブ山上のイエスの戦いを、司祭的な出来事だと解釈しています。この苦しみにおいて、主は司祭としての任務を果たされます。自分自身の上に全人類、わたしたちすべての罪を引き受け、わたしたちを御父のもとに連れて行くのです。

最後に、オリーブ山上でのイエスの祈りの内容に注意を向けなければなりません。

イエスは言います「父よ、あなたにはすべてが可能です。この盃をわたしから遠ざけてください。しかし、わたしの望みではなくあなたのみ旨が行われますように」(マルコ14,36)。

迫り来る恐ろしい試練を前に、イエスの人間としての意志は恐れをなします。そして、それを取りのけてくださいと願います。しかし、イエスはこの人間的な意志を、子として御父の意志にゆだねます。

アダムの態度はこうではありませんでした。彼は神が望むことではなく、自分が神となることを望んだのでした。この傲慢な態度こそが、罪の本質です。

わたしたちは自分自身の意志だけに沿う状態を、自由と考えます。ですから、神はあたかもわたしたちの自由の妨げであるかのように見るのです。人間は、しばしば神から解放された時に、自由になれるのだと思いがちです。しかし、これこそが人間の歴史の中で幅を利かせ、わたしたちの生命をゆがめてきた反逆です。人が神に反抗する時、真理にも反抗するのです。これでは真の意味での自由にはなれません。これでは自分自身を見失います。わたしたちは真理の中にある時にのみ、神と一致している時にのみ自由なのです。その時、わたしたちは本当に「神のように」なれるのです。

オリーブ山上での祈りにおいて、イエスは従順と自由の間にある偽りの対立を取り除きました。そして真の自由への道を開いてくださいました。

神のみ旨に常に従う恵みを主に祈りましょう。こうしてわたしたちは真に自由な者となれるでしょう。アーメン。








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