2012-04-02 18:55:25

受難の主日:バチカンで教皇ミサ「十字架を玉座とする王キリストに従う」


典礼暦で受難の主日を迎えた1日、教皇ベネディクト16世はバチカンの聖ペトロ広場でミサを捧げられた。

「受難の主日(枝の主日)」とは、復活祭直前の日曜日で、この日よりキリストの受難を記念する聖週間に入る。この日はイエスのエルサレム入城の際、民衆が歓呼のうちにイエスを迎え、その足元に服や木の枝を敷いたという福音書の記述を思い起こし、ミサの前にオリーブなどの枝を持って宗教行列が行なわれる。

この日は「世界青年の日」(教区レベル)が記念されたこともあり、広場にはローマ教区の若者たちがたくさん集った。

教皇はミサの前にオリーブと棕櫚の枝を祝別され、聖職者・修道者・信者らは、それらの枝を掲げ、賛美の歌を歌いながら、祭壇まで宗教行列を行った。

ミサの説教で教皇は、受難の主日を聖週間・復活祭への大きな扉として示しながら、聖書の言葉を完成し、十字架にかかるためにエルサレムに上がるイエスの姿、その十字架を王座とし、あらゆる時代の人々を引き寄せ、すべての人々に贖いの恵みを与えるイエスの愛を観想するように招かれた。

教皇はイエスがエルサレムに入城した際の人々の歓喜を思い起こしながら、人々のこの喜びの叫びの本質が何であったのかと考察された。

メシアは、神がアブラハムに約束した祝福を完成させる者であり、神から祝福された者として群衆が叫んだその者は、同時に人類全体をも祝福する者であった、と教皇は述べられた。

今日の受難の主日の大きなメッセージの一つは、様々な文化や文明から構成される全人類を、わたしたちもキリストから受け取った祝福の眼差しで見つめよということであると教皇は説き、その眼差しとは、叡智と愛に満ち、世界の美しさと共に、人間の弱さをも受け入れることのできる眼差しであり、創造主である神ご自身の人間に注ぐ愛の眼差しを反映するものでなければならないと話された。

キリストをイスラエルの王と叫んだ人々の心に実際にあったものは、メシアというものに対する彼らの概念であっただろうと教皇は述べ、そのメシア像とは彼らが長く待ち望み、預言者たちが約束した、王としてふるまう者の姿でなければならなかったと指摘された。

実際、その数日後、エルサレムの群集がもうイエスを賛美せず、「十字架につけろ」とピラトに叫んだように、イエスのメシアとして、イスラエルの王としてのあり方に、弟子たちを含む多くの人々が期待を裏切られてしまった、と教皇は話した。

では、ナザレのイエスとは誰なのか、メシアに対してわたしたちはどのような概念を持っているのか、神をどのような方と考えるのか、これこそが十字架を玉座とする王、キリストについていくよう招かれているわたしたちの聖週間のテーマなのであると教皇は強調された。

教皇は広場の若者たちに向け、この受難の主日を、主に最後まで従うことを受け入れる「決意の日」とするよう招かれた。

また、神のこれほどまでの大きな愛に賛美と感謝を新たにし、偉大な教父たちが説いたように、イエスの前に木の枝や服を敷くのでなく、わたしたちの命、自分たち自身を敷くようにと、すべての信者を励まされた。








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