2012-02-09 19:10:24

イエスの十字架上での祈りをテーマに、教皇一般謁見


教皇ベネディクト16世は、バチカンで8日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシスで、キリスト教の祈りをめぐる考察として、数回にわたりイエスご自身の祈りに注目してこられた教皇は、この日はイエスの十字架上での死に面した祈りをマタイ福音書とマルコ福音書の記述から観想された。

ここ数日、ヨーロッパは厳しい寒波と大雪に見舞われたが、教皇はこの悪天候による犠牲者らの冥福を祈ると共に、各地に連帯の精神をもって救援がもたらされることを願われた。

教皇のこの日のカテケーシスの要約は以下のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

今日は、十字架上での死を目前にしたイエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という天の御父に対する祈りを考察しましょう。このイエスの叫びは全地を闇が覆ってから3時間後に発せられた叫びです。

闇は、聖書においていくつかの象徴として登場します。闇は、悪のシンボルであると同時に、時には神の神秘的な現存のシンボルでもあります。シナイ山で神がモーセに出現された時、モーセは濃い雲に覆われていました。同じように、イエスもカルワリオの丘の上で闇に覆われるのです。愛する御子の十字架上での犠牲の最中、神は不在のように見えても、実は神秘的な方法で御父はその御子の上に愛の眼差しを注いでいたのです。

「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」というイエスの言葉は、詩編第22番の冒頭の言葉です。イエスの叫びが絶望の叫びではなかったことを知る上で、この叫びを詩編22番全体から理解するのは大変重要なことです。詩編22は、逆境の最中にあっても、自分たちを見捨てることのない神が彼らの中に現存し、彼らの叫びに耳を傾けてくださるという、イスラエルの民の神への深い信頼を表現するものだからです。

死に面したイエスのこの祈りは、たとえ苦しみの中にあっても、決して見捨てることのない神の愛を知るよう、困難にあるすべての兄弟姉妹たちのために深い信頼をこめて祈ることをわたしたちに教えてくれるのです。







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