2012-01-07 17:50:53

「神の母聖マリア」大祝日:教皇「若者のために平和と正義の教育を」


2012年を迎え、教皇は、バチカンで1日、「神の母聖マリア」の大祝日と、カトリック教会の「第45回世界平和の日」を記念するミサを捧げられた。

今年の世界平和の日は、「若者に対する正義と平和の教育」をテーマに掲げている。

教皇は、ミサの説教の中で、イエスを受け入れることで祝福を受け、イエスをもたらすことで祝福を人々に伝えた聖マリアに倣い、秘跡を通して人々に恵みと神の生命を与え、福音の種子を世界中に蒔く教会の役割を提示。神の祝福の総体としての「平和」、その平和を構築するための、若者たちへの教育の重要性を強調された。

教皇ミサの説教は以下のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

今日一年の初めの日にあたり、典礼は世界に広がる教会全体に今日のミサの第一朗読で読まれる、いにしえの司祭的祝福を響き渡らせます。「主があなたを祝福し、守りますように。主がその御顔であなたを照らし、恵みを与えられますように。主が御顔をあなたに向け、平安を賜りますように」(民数記 6,24-26)。
この祝福は神からモーセを通して、アロンとその息子たち、すなわちイスラエル民族の祭司たちに託されました。主なる神の御名の繰り返し、その御顔に由来する三重の光の祝福です。事実、神から祝福されるためには、神の御前に立たねばなりません。そして自分自身の上に神の御名を受け、その御顔から出る光線の中に、恵みと平和を注ぎ出すそのまなざしの中に留まる必要があります。

これはまた、今日朗読された福音の中に現れる、あのベトレヘムの羊飼いたちの体験でもあります。羊飼いたちも神の御前に立ちました。そして、その祝福を豪華な宮殿の中でも、偉大な君主の前もなく、貧しい馬小屋の「まぶねに横たえられた幼子」の前で受けたのです (ルカ2,16)。
主の降誕の場面を描く多くの絵に見るように、まさしくあの幼子から闇を照らす新しい光が輝き出ます。今や、彼から祝福が来るのです。「神は救われる」という意味のイエスというその名から、その人としての御顔から、祝福が来るのです。天地の全能の主である神は、人となることを望まれました。さらに、その慈しみを私たちに完全に示されるために、私たちの肉体のベールの下にその神としての栄光を隠されることを望まれたのです 。

この祝福に最初に満たされたのは、神が人となられたその御子の母として、その存在の最初の瞬間から選ばれたヨゼフの妻、おとめ聖マリアでした。彼女は聖エリザベトが挨拶したように「女の中にて祝福された方」でした。彼女の全生涯は主の光の中、彼女の胎内で祝福されたイエスにおいて人となられた神の御顔と御名の業の光線の中にありました。その子イエスに関することはすべて心の中に思い巡らしていたと、聖ルカは彼女をこのように示しています(ルカ 2,19.51)。
今日祝う彼女の神母性は、受胎の神秘はいつでも神の特別な祝福であるという、すべての母親が持つあの恵みを、最高度に保っています。神の御母は最初に祝福された方、祝福をもたらす方です。自分自身の中にイエスを受け入れ、全人類家族のためにイエスを産んだお方です。典礼が祈るように「常におとめの栄光を保ち、世界を永遠の光、われらの主イエス・キリストで照らしました」(Prefazio della B.V. Maria I)。

マリアは教会の母であると共に、模範です。信仰の中に神の御言葉を受け取り、神がその救いの御業を成し遂げることのできる「善い土地」として、神に自分を捧げます。教会もまた、福音の種子を世界中に蒔き、秘跡を通して人々に恵みと神の生命を与えながら、神的母性の神秘に参与します。水と、信者一人ひとりの心の中で「アッバ・パーテル(お父さん)」と叫ぶ聖霊から、神の子たちを生み出す時、教会はこの洗礼の秘跡において特別にこの母性を生きています (ガラテヤ 4,6)。
聖母マリアのように、教会は世界のための神の祝福の仲介者でもあります。聖母はイエスを受け入れることによって祝福を受け、イエスをもたらすことによって祝福を伝達します。イエスこそ、世が自分では決して与えることのできない、パンよりもいつも必要とされる憐れみそのもの、平和そのものです。

親愛なる友人の皆さん、平和は最も完全で崇高な意味で、すべての祝福の総合、統合です。ですから、友人たちは挨拶する時、平和をお互いに交わすのです。教会も一年の最初の日に特別にこの最高の贈物を祈り求めます。聖母マリアのように、すべての人々にイエスを示しながら、平和を祈願します。なぜなら聖パウロも言うとおり「イエスはわたしたちの平和」だからです (エフェソ 2,14)。
同時に、イエスは、皆が願う目的にすべての人、すべての民が到達するための「道」でもあります。

「正義と平和に向けて若者たちを教育する」ということは、すべての世代に関わる課題です。人類家族は、二つの世界大戦の悲劇の後、この問題を常により意識するようになりました。国際社会からの多くのアピールや取り組み、またここ数十年来、若者たちのこの分野での様々な社会的参加がこれを如実に証明しています。 教会共同体にとって平和教育はキリストから託された使命であり、福音宣教の一部をなすものです。なぜなら、キリストの福音は正義と平和の福音でもあるからです。このところ、教会は人類の未来に関する責任ある良心の声の代弁者の役割を果たし、そこでは決定的な挑戦、すなわち教育の重要性を主張しています。これはなぜ「挑戦」なのでしょうか。少なくとも二つの理由があります。第一に、技術万能主義に強く影響された現代において、単に知識を提供するだけでなく、真に教育することの価値が見落とされているからです。またもう一つは、相対主義文化が投げかける疑問です。教育にはまだ意味があるのか、教育が必要なら何を教育したらよいのか、ということです。

もちろん、この問題について今ここで踏み込んだ考察はできません。それにはまた別の機会にお答えしたいと思います。ただ今は、世界の行く末を覆っている闇を前にして、若者たちに対し、真理の認識、存在の根本的な価値、知的・対神的・倫理的な徳を教育する責任を負うことは、未来を希望をもって見つめることであると強調したいのです。総合的な教育とは、正義と平和への教育も含むものです。 今日の少年少女は、言わばより小さな世界、常に直接的とは言えなくとも 、異なる文化や伝統に絶えず接触する世界に生きています。今日、いつの時代にも増して彼らには互いの尊重・対話・理解・平和共存の価値とその方法を学ぶことが必要不可欠となっています。若者たちは本質的にこれらの態度に開かれています。しかし、彼らが実際に生きる社会の現実が、正反対の仕方で行動するよう、果てには不寛容や暴力に走るよう仕向けることさえあるのです。彼らの良心の堅固な教育だけが、これらの危険から彼らを護り、真理と善の力だけによって常に戦うことを可能にしてくれます。このような教育は家庭から始まり、学校や他の育成上の経験を通して発展していくものです。これは根本的に、子ども・少年・青年たちを、他者に対する尊重、争いを平和的に解決する力、たとえ犠牲を必要としても善を証しする内的な力、赦しと和解の力をかね持つ、深い正義感を備えた人格に育て上げることです。こうして彼らは真の平和の人、平和の建設者となることができるでしょう。

若い世代への教育というこの仕事において、宗教共同体もその責任の一端を担っています。神を知り、神を愛し、神の御旨を行うように、真の宗教教育のあらゆる段階が、ごく幼い頃から各人に伴います。神は愛であり、正義であり、平和です。ですから、神を敬う者は、何よりも父親の模範に従う息子のようにあるべきです。詩編はこのように言います。「主は、正義の業を行い、すべての虐げられる者の権利を守られる。主は、慈しみと憐れみに深く、怒るにおそく、愛に満ちておられる」 (詩編103,6.8)。イエスがその生涯の証しをもって、私たちに示してくださったように、神にあって正義と憐れみは完全に共存します。イエスにおいて「愛と真理」は出会い、「正義と平和」は互いに口づけしました。(詩編85,11)。この時期、教会は偉大な託身の神秘を祝います。神の真理は地から芽生え、正義は天から下り、地はその実を結びます(詩編85,12.13)。神はその御子イエスにおいて私たちに語られました。神が何を語られるのかを聞きましょう。 「神は平和を告げられます」(詩編85,9)。イエスはすべての人々のために開かれた道です。それは平和の道です。今日、聖母マリアはこの道をわたしたちに示してくれます。この道を進んで行きましょう。神の御母、聖母マリアよ、あなたのご保護をもって、私たちと共に歩んでください。アーメン。








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