2011-12-30 17:58:39

聖家族の生活の中の祈りをテーマに、教皇一般謁見


教皇ベネディクト16世は、バチカンで28日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

会場のパウロ6世ホールには、聖ペトロ大聖堂をモチーフにしたプレゼピオ(イエスの降誕の場面を再現した馬小屋の模型)が飾られるなど、教皇と巡礼者たちの出会いは降誕祭の喜びに満ちた雰囲気の中で行われた。

この日の謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇は祈りをテーマとした考察として、ナザレの聖家族の生活において祈りがどのような役割を占めていたかを観想。

ナザレの聖家族は祈りの学び舎であると述べた教皇は、マリアとヨセフとイエスに倣い、神のみ言葉に耳を傾け、観想し、神の御子の神秘に深く入り込むよう招かれた。

聖家族の学校は第一に沈黙を教えてくれると説いた神のしもべパウロ6世の言葉を教皇は冒頭で回想。

続いて、教皇は福音書中のイエスの幼・少年期のエピソードに、聖家族にとっての祈りや神との関係を見出された。

イエスの神殿への奉献では、モーセの立法に従ってマリアとヨセフは幼子をエルサレムの神殿に連れて行くが、イエスの中に主の存在をすでに見ている二人にとってこの旅は、信仰と、祈りの象徴である捧げ物、主との出会いの巡礼であったと教皇は述べられた。

教皇は、マリアをキリストの観想における最高の模範として賛美。受胎告知の瞬間から心の眼差しを御子に集中してきたマリアにとって、イエスをめぐるあらゆる思い出は彼女の人生にくまなく刻まれ、福音書記者ルカの言葉にあるようにマリアはそれを「すべて心に納めて、思い巡らしていた」(2,19)のであり、受肉の神秘を前にしたマリアの観想の姿勢は一生の間続いた、と述べられた。

こうしたことから、マリアと精神的に一致しつつキリストの神秘を観想するためには、ロザリオの祈りが大変重要であることを教皇は示された。

一方、教皇は、神のまなざしをもって生きるマリアが、ヨセフに与えた影響をも指摘。自分の人生をマリアのそれと一致させようとするヨセフの決意は、もとより「正しい人」(マタイ1,19)であった彼をこの上なく神に近づけさせ、ヨセフは、マリアと、また特にイエスと共に生きることで、神とのまったく新しい関係を築き、神をその人生に迎え入れ、その救いの計画に参与し、その御旨をまっとうしようとした、と教皇は話された。

教皇は、自分自身のすべてをマリアとイエスのために捧げたヨセフの生涯を振り返り、福音書の中に一つもその言葉が残されていないヨセフの、沈黙に満ちていながらも、誠実で、常にそばにいて、働き者であるその存在を見つめられた。

教皇はまた、幼・少年期のイエスと共に家庭生活をおくったヨセフが、父親としての役割を完全に果たし、マリアと共に日常の祈りをイエスに教え、ユダヤ教の伝統に従ってイエスをシナゴーグやエルサレムに連れて行ったであろうと想像。ナザレの簡素な家とヨセフ仕事場の間でおくる毎日の中で、イエスは祈りと仕事を学ぶと共に、家族に必要な日用の糧を得るための労苦を神に捧げることをも学んだであろうと話された。

さらに、福音書中に見るナザレの聖家族の祈りに関連した出来事として、イエスが12歳の時、両親と共に過越祭のためエルサレムに巡礼したエピソードを教皇は紹介。巡礼という行為に、家の中で祈るだけでなく、地上の旅を続ける神の民の一員として共同体と一緒に祈ることの意味を説明された。

このイエスの12歳の巡礼では、祭りが終わった後もイエスはエルサレムに残り、両親はそれを知らず、3日間イエスを探し回るという出来事があった。このエピソードではイエスが発した言葉が初めて記されている。それは神殿にいたイエスが言った「どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」という言葉であった。

イエスはこの言葉によって自分の真の父・真の家を示したが、神の御一人子としての自覚を持ったイエスの口から聞く御父の名がマリアとヨセフの心にひき起こしたものに教皇は思いをはせられた。そして、この日から聖家族の生活はイエスを介してより御父との深い関係を育み、ますます祈りに満ちたものになったであろうと教皇は述べ、こうしてイエスの存在を中心に天の御父との関係を生きるナザレの聖家族は、教会の最初のモデルとなったと説かれた。

教皇は、家族は「家庭教会」として最初の祈りの学校であるべきとし、ナザレの聖家族のように共に祈ることで、ただ一つの心、真の家族となって欲しいと、信者らに願われた。








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