2011-12-29 18:33:58

主の降誕2011:深夜ミサ・教皇説教


親愛なる兄弟姉妹の皆さん

今傾聴したばかりの聖パウロのテトスへの手紙の朗読は「アッパルイト」という言葉をもって荘厳に始まります。この同じ言葉は「暁のミサ」の聖書朗読の中でも繰り返されます。「アッパルイト」とは、「現れた」ということです。教会はこの言葉をもって「主の降誕」の本質を要約して表現しようとするのです。
かつて人間は様々な方法で神を人間的に表現しようとし、またそのイメージを作ろうとしてきました。一方、神ご自身もいろいろな方法で人間に語り掛けてきました(ヘブライ人への手紙 1,1)。しかし、今やこれまでの方法をまったく超越する何かが起こりました。神は現れました。神がご自分を示されたのです。神ご自身が私たちの中に来られたのです。「神が現れた」、これこそが初代教会にとっての主の降誕の大きな喜びだったのです。神はもう単なる概念でも、言葉から類推すべきものでもありません。彼は「現れてくれた」のです。
しかしここで私たちは問います。神はどのように現れたのでしょうか。彼はいったいどのような方なのでしょうか。「暁のミサ」の聖書朗読はこれについて語っています。「わたしたちの救い主である神のいつくしみと、人間に対する愛とが現れた」 (テトス3,4)。
世界の様々な恐怖や矛盾を前に、神ですらまったく善良というわけではなく、残酷で横暴でさえあるかもしれないと思っていたキリスト教以前の人々にとって、これはまことの「エピファニア(現れ)」であり、偉大な光の訪れでした。神は純粋な善なのです。今日でも信仰の中に神を見出せない人々は自問します。世界を創り支える根本的な力は本当に善なのか、それとも悪も同じように力を持っているのではないかと。「神のいつくしみと、人間に対する愛とが現れた」これはまさしく主の降誕において私たちに与えられた新しく慰めに満ちた確信です。

主の降誕の3つのミサのどの典礼においても、降誕における神の現れをより具体的に表現するイザヤ書の1節が朗読されます。「一人のみどり子がわたしたちのために生まれた。一人の男の子わたしたちに与えられた、その肩には権威がある。その名は、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる。平和は限りなく続く 」(イザヤ 9,5s)。イザヤ預言者はこの言葉をもって彼の時代に生まれたある幼子のことを考えたのかはわかりません。おそらくそれは不可能だったと思います。これは旧約聖書の中で唯一、一人の幼子、一人の人間を「力ある神、永遠の父」と呼んでいる箇所です。これは歴史的時間を大きく越えた、未来の神秘のビジョンを前にしているのです。
このか弱い幼子は、力ある神なのです。この幼子は人の助けを必要としながらも、永遠の父なのです。そして、その平和は絶えることがありません。
イザヤ預言者はこのみどり子について述べる最初に「大いなる光」について話しています。そして彼がもたらす平和について、厳しい監視人の杖は折られ、地を響かせた軍靴、血まみれの軍服は燃やされてしまったと明言しています。

神は現れました。一人のみどり子として。神はこうしてあらゆる暴力に反対し、平和のメッセージを発するのです。多くの場所、様々な形で、暴力が絶え間なく世界を脅かし、監視人の杖や血まみれの軍服が再び力を振るっている今この時に、主に向かって叫びましょう。
全能の神よ、あなたは幼子として現れました。私たちを愛し、愛を勝利させる者としてご自分を示されました。あなたはご自分と共に平和のために働く者となるべきことを私たちに教えてくれました。 幼子となられたあなたを私たちは愛します。あなたの非暴力を愛します。しかし、今なお世界で暴力が続く事実に私たちは苦しんでいます。ですから、私たちはあなたに祈るのです。神よ、あなたの力をお示しください。この時代、この世界で、監視人の杖、地を響かせた軍靴、血まみれの軍服は燃やされ、私たちの世界にあなたの平和が勝利を博しますように。

主の降誕は、またエピファニア「出現」でもあります。私たちのために生まれた幼子の中に、神とその偉大な光が現れました。幼子は王たちの宮殿ではなく、ベツレヘムの馬小屋に誕生しました。1223年、アッシジの聖フランシスコがグレッチョにおいて牛とロバとまぐさで一杯のかいばおけで降誕祭を祝った時、降誕の神秘の新たな面が示されました。アッシジの聖フランシスコは主の降誕を「祝日の中の祝日」あらゆる大祝日の最高の大祝日と呼び、この日を細心の注意を払って祝っていました。 フランシスコは幼きイエスのご像を深い信心をこめて接吻し、子供に話しかけるように可愛らしい言葉使いで話していたと、伝記作者チェラーノのトンマーゾは伝えています。
初代教会にとって「祝日中の祝日」は主の復活でした。復活においてキリストは死の扉を打ち砕き、世界を根本的に変えました。神ご自身の中に人間のための場所を設けてくれたのです。聖フランシスコは祝日の客観的な重要度も、復活の神秘の中に信仰の中心を置くことも変えることなく、また変えることも望みませんでした。しかし、彼と、彼の信じ方を通して、新しい何かが起こったのです。聖フランシスコは、深い新たな観想のうちにイエスの人間性を発見したのです。神が人となったという事実は、聖フランシスコにとって、神の御子がおとめマリアから生まれ、布にくるまれ、まぶねに置かれた瞬間に、最も明瞭な現実となったのです。復活は託身を前提とします。神の御子は、幼子として、真の人の子として、信仰を愛に変容しつつ、アッシジの聖者の心に深く触れました。「人々のために神の憐れみと愛が現れた」という聖パウロのこの言葉は、まったく新しい深さを帯びました。ベツレヘムの馬小屋の幼子を通して、いわば、神に触れることができるのです。こうして典礼暦年、は第二の中心的な祝日「心の祝日」を獲得したのです。

これらは単なる感傷主義とはまったく異なるものです。まさにイエスの人間性の新たな体験の中で、信仰の偉大な神秘が啓示されるのです。聖フランシスコは幼きイエスを愛しました。なぜなら彼にとって、幼子であるいうこの事実のうちに神の謙遜が明らかになったからです。神の御子は馬小屋の貧しさの中に誕生しました。幼子イエスにおいて神は他者に依存する者、人の愛を必要とする者、人々の、私たちの愛を乞う者となりました。今日、クリスマスは商業的な祝日となってしまいました。まばゆく輝く電飾は神の謙遜の神秘を隠しています。この時期、街を飾る華やかなきらめきの向こうに、ベツレヘムの馬小屋の幼子を見出し、真の喜びと本当の光を発見できるよう、主に助けを祈りましょう、

聖フランシスコは、牛とロバの間に置かれたまぶねの上でミサをたてさせました。かつて動物たちがまぐさを食べていた場所で 今度は人間たちが霊魂と身体の救いのためにほふられた汚れなき子羊、イエス・キリストの聖体をいただくことができるよう、後にこのまぶねの上に祭壇が作られたと、チェラーノは語っています。あのグレッチョの聖なる夜、聖フランシスコは助祭として響き渡る声でご降誕の福音を歌いました。修道者たちの素晴らしいクリスマス聖歌のおかげで、儀式はまったく喜びそのものと化したのでした。まさしく神の謙遜との出会いは喜びに変わっていきました。その愛は真の祝日となったのです。

ベトレヘムの主の降誕教会を訪れる人は、皇帝やカリフたちが出入りしていた昔は高さが5メートル半以上もあった出入り口が、今日そのほとんどが壁で埋めつくされているのを見るでしょう。高さ1メートル半の小さな入り口があるだけです。これはおそらく外敵の侵入から教会を護るため、特に神の家に馬に乗ったまま入ることなどを防ぐためだったと思われます。
イエス誕生の場に入りたい人は、身を屈めなければなりません。この事実の中に、聖なる夜に私たちの心を打たずにはおかない、より深い真理が示されているような気がします。幼子として現れた神を見出したければ、私たちは理性という馬からまず下りなければなりません。神が近くにいることを理解するのを妨げる、私たちの偽りの確信や知的傲慢を捨てなければなりません。私たちは聖フランシスコの内的歩み、心で物事を見ることができるようになるための、外的・内的単純さへの道に従わなければなりません。信仰の扉をくぐり、私たちの先入観や考えとは異なる神に出会うために、身をかがめ、いわば徒歩で行かなければなりません。
神は生まれたばかりの幼子の謙遜の中に隠れています。物質的なもの、計り、さわることのできるものに目を向けることなく、聖なる夜の典礼をこのように祝いましょう。単純な心にご自分を示されるあの神から、私たちも単純にしていただきましょう。
今、この時、特に貧しさや苦しみ、移民としての状況の中でクリスマスを過ごさなければならないすべての人にも神の愛の光が現れるように、また、御子の馬小屋での誕生を通して世界にもたらすことを望まれた神の愛が彼らにも私たちにも届くよう祈りましょう。アーメン。










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