2011-11-17 17:25:11

「聖書の中の貴重な祈り、詩編に親しもう」教皇一般謁見


教皇ベネディクト16世は、バチカンで16日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇はキリスト教の祈りの考察として、数回にわたり旧約聖書・詩編を紹介されてきた。この日、教皇は詩編の第110番を取り上げ、これによって詩編をめぐる講話を締めくくられた。

教皇は詩編をテーマとした一連の考察の終了に当たり、聖書の中に見出され、人生のあらゆる状況の中で神に向ける思いが表現される詩編を、貴重な祈りとして改めて信者らに示された。

そして、神との関係をいっそう豊かに、神に向かう毎日の歩みをより喜びと信頼に満ちたものとするために、できることならば聖務日課に親しみ、詩編を朝の祈り、夕の祈り、寝る前の祈りの際に唱えることを勧められた。

「王の詩編」として知られる詩編第110番は、「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」という荘厳な宣言によって始まるもの。

教皇は、この詩編にメシアであり、王、大司祭である、復活の主・キリストの姿を見つめられた。

教皇のカテケーシスの要約は以下のとおり。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

キリスト教的祈りに関するカテケーシスで、今日は詩編第110番を考察しましょう。これは「王の詩編」として有名で、もとはダビデ王家の戴冠式に関連する詩編でした。

教会はこの詩編の中に、メシアであり王である永遠の大司祭、死者の中から復活され父の右に座すキリストについての預言を読み取ってきました。

聖ペトロは聖霊降臨の日の説教(使徒言行録 2,32-36)の中で、詩編の言葉を死に対する主の勝利、栄光への高揚として解釈しています。

古い時代より、詩編の3節目にある神秘的な言葉は王が神の子であること、第4番目の言葉は彼がメルキゼデクに等しい「永遠の大司祭」であることを語っていると解釈されてきました。

特にヘブライ人への手紙( 7,25) は、このイメージを神の子、ご自分を通して御父に近づくすべての人々のために執り成すべく永遠に生きるキリストに当てはめています。

詩編の最後の言葉は、国々を裁く裁判官としての「勝利の王」を示しています。

私たちはこの詩編を唱える時、復活された主であり王である方の栄光を賛美するのです。 洗礼によってキリストの身体の一部となった私たちは、キリストの王職と司祭職にも参与する者となったのですから、その尊厳を完全に生き抜くよう努力しましょう。








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