2011-11-07 17:39:31

ナイジェリアのテロとジェノヴァの水害に教皇のアピール


教皇ベネディクト16世は、バチカンで6日、日曜正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。

この集いで教皇は、ナイジェリア東北部ボルノ州とヨベ州で4日から5日にかけて起きた連続テロに深い憂慮を表され、犠牲者らの冥福を祈られた。暴力は問題の解決にはならず、憎しみと分裂を助長するのみと述べた教皇は、あらゆる暴力の停止を訴えられた。

また、教皇はイタリア・ジェノヴァを襲った深刻な水害にも言及。犠牲者と遺族、被災市民のために祈られると共に、この試練を乗り越えるための連帯を呼びかけられた。

説教で教皇は、この日のミサの第2朗読、使徒聖パウロのテサロニケの教会へ手紙の、「すでに眠りについた人たちについて、希望を持たない他の人々のように悲しまないように、次のことを知ってほしい」(1 テサロニケ 4,13)という言葉を引用しつつ、先日の「死者の日」に続き、永遠の命をめぐる観想に人々を招かれた。

イエス・キリストの死と復活を信じるか否かは、死を考える上で、決定的な違いを生むと教皇は強調。信じる人と信じない人の違いは、希望を持つ人と持たない人の違いと言ってもよいと話された。

神を、キリストを取り去るなら、世界は空虚な闇に再び陥ってしまうだろうと述べながら、若者たちの間にも無意識にはびこる、現代社会の虚無主義の危険に触れられた。

続いて教皇は、この日の福音朗読箇所、マタイ福音書の「十人のおとめ」のたとえ( 25,1-13)を考察。イエスのこのたとえは、婚宴で花婿を迎える役の十人のおとめのうち、賢い五人はともし火と油壺を持っていたので婚宴の席に入れたが、愚かな五人はともし火だけで油を持っていなかったためその席に入ることができなかったというもの。

婚宴の席に入るために必要なこの「油」とは何を意味するのかと問いながら、教皇は古代の教父たちがこの油を愛の象徴として捉えていると紹介された。

愛は買うことができず、恵みとして受けとり、心に育み、業として実行するものであり、地上の命がある間、愛徳の業に励むのは懸命なことである、死後それを行うことはできないのだから、と教皇は説かれた。

愛である神を信じる者は、自分の中に朽ちることのない希望を持ち、その希望はランプの火のごとく、死の夜を越えさせ、命の祝祭に導く道を照らすと話された教皇は、聖母マリアのように裏切られることのない希望に生き、死ぬことができるようにと祈られた。








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