2011-09-25 18:39:36

教皇、フライブルクでミサ「教会の刷新は常に回心から」



教皇ベネディクト16世は、25日午前、フライブルクでミサをとり行われた。

22日から4日間にわたる教皇のドイツ司牧訪問は、この日で最終日を迎えた。フライブルクは朝から青空が広がり、ミサ会場となった空港の敷地には、ドイツ各地はもとより、近隣国からも、およそ10万人の信者が集った。

教皇はミサの説教で、私たちは今日世界で見る様々な恐ろしい出来事に動揺するが、これらの出来事を前に神への信仰を告白するとはどういうことかと問題を提示。

私たちは全能の神を信じるが、神はその力を、この世で人間が考え行うのとは、違う形で働かせられるということを忘れてはならないと話された。

神の力は特に憐れみと赦しの中に表され、神は私たちすべての救いを望まれるが、神の憐れみの力に触れたいのならば、私たちは無関心をやめ、悪を捨て、心を開き、その言葉に耳を傾けなければならない、神はただ私たちの「はい」という返事を待っておられると教皇は説かれた。

教皇はミサ中朗読されたマタイ福音書の「二人の息子」のたとえ(21,28-32)を取り上げ、父のぶどう園で働くようにとの呼びかけに、一人の息子は「いやです」と言ったが結局思い直して働きに出かけ、もう一人は「承知しました」と言いながらも出かけなかったというエピソードを考えるように招かれた。

「重要なのは言葉ではなく、行い、回心と信仰の行動である」と、教皇はこのたとえのメッセージを要約。

社会・福祉分野で特に目覚しい活動を行っているドイツの教会の働きに教皇は感謝と賞賛をおくりながら、これらの活動が単に技術的・職業的な奉仕に終わらないよう、人々がキリストの愛に触れられるようにさらに自らの心を開き、愛である神をより目に見えるように証しすることを希望された。

そのためは自分の信仰生活の質を振り返ることが大切と述べた教皇は、教会の刷新は回心への望みと、新たにされた信仰からのみ得られるものだからであると強調された。

この時代、謙遜とは大きな評価を得ない美徳であるが、キリスト者はこの美徳が協力と対話、一致のための潤滑油であることを知っていると指摘されながら、教皇はドイツの教会が勇気と謙遜をもって、神の慈しみに養われ、キリストに目を据えながら、信仰の道を歩んでいけるようにと願われた。








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