2011-09-20 17:33:44

新しい福音宣教の時代に人々を招く、教皇、日曜の集い


教皇ベネディクト16世は、カステルガンドルフォで18日、日曜正午の祈りの集いを持たれた。

説教で教皇は、この日のミサで朗読された使徒パウロのフィリピの信徒への手紙の一節(1・20c-24, 27a)を取り上げられた。

使徒パウロの時代、フィリピは、古代ローマの属州となっていたマケドニア地方の重要な都市であった。

現在のギリシャ北部に位置するこの都市を、イエスの死と復活からおよそ20年後の紀元50年頃、聖パウロは第2回目の宣教旅行で訪れ、そこにキリスト教徒の共同体を創立した。福音がヨーロッパにもたらされたのはこれが初めてのことであった。

フィリピの信徒への手紙の内容は、キリストの受肉、十字架の死に至るまでの謙遜、そして栄光の神秘を要約した、キリスト賛歌であったと教皇は説明。

死刑か否かの判決を待つ牢獄の中でこの書簡を記したパウロの「わたしにとって生きるとはキリストであり、死ぬことは儲けなのです」(フィリピ1,21)という言葉を引用しながら、生きたイエス・キリストとの交わりによって獲得される、命と人間存在の新しい意味に注目された。

聖パウロはヘブライとギリシャとローマの3つの文化を自身の中に併せ持った人間であったと教皇は指摘。小アジアからギリシャ、そしてローマに至る宣教を通し、キリスト教を地の果てまで伝える橋を準備した彼に働いた神の摂理を思われた。

今日、私たちは新しい宣教の時代を生きていると述べつつ、福音に対し広い地平線が開ける一方、キリスト教の古い伝統を持つ地域では信仰の素晴らしさを再発見する必要に迫られている状況を教皇は注視。

この新しい宣教の主役となるのは、神のぶどう畑で働くことを喜びとする謙遜で寛大な働き手たち、聖パウロのように「私にとって生きるとはキリストである」と言えるすべての個人、家族、共同体であると呼びかけられた。

「広大な野を潤す川のように、福音は世界を変え、さらに変え続ける」と話された教皇は、すべての教会で新しい福音宣教ための司祭、修道者、信徒の召命が育つよう祈られた。

集いの後半、教皇は、前日17日にイタリアのトリノでとり行われた、モンシニョール・フランチェスコ・パレアリ(1863 – 1939)の列福式に言及。聖ジュゼッペ・コットレンゴの司祭会に入り、同聖人が創立した「御摂理の小さな家」で貧しい人々や病者に奉仕し、神学校や修道会で教鞭を取り、多くの人々に尽くした新福者の温和で忍耐深い人柄、神の愛を証ししたその生涯を思い起こされた。








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