2011-05-25 17:58:10

教皇一般謁見・カテケーシス要約(2011.5.25)



親愛なる兄弟姉妹の皆さん

今日のカテケシスでもキリスト教的祈りについての考察を続けましょう。今回は旧約聖書の創世記の中に読まれる「ヤッボクの渡し場」で起こった太祖ヤコブと神との闘争の出来事を主題として考察してみたいと思います。

この不思議な出来事は夜中にヤコブが一人で無防備な状態の時に起こります。ヤコブと戦う人物がいったい誰なのかまた誰が勝利者なのかは最初はっきりしていません。ヤコブは見知らぬ人物と争い腰骨を打たれ傷つきます。ヤコブは相手からその名前を聞かれ自分の名前を明かします。名前を明かすということ、それは古代ヘブライ人のメンタリティーによれば自分の全てを相手に明け渡すということを意味します。しかしヤコブの相手は自らの敗北を認め、去らしてくれと願います。ヤコブは自分を祝福してくれなければ行かせないと言い張り、その不思議な人物から祝福を受けます。そして、さらにヤコブはイスラエルという新しい名前を受けるのです。そしてヤコブは夜通し自分が戦ったのが神ご自身だったとことを理解します。
この不可思議な出来事に関しては多くのさまざまな解釈がされていますが、教会の昔からの霊的伝統ではこの出来事をキリスト教的な祈りをあらわすものとして理解しています。祈りは、たとえあのヤコブのように何も見えない、物事が定かではない闇夜のような状況の中にあっても信頼をこめて根気よく神の祝福を勝ち取るまで戦い続ける戦いのようなものでると教父たちは教えてきたのです。 この戦い、すなわち祈りは神の恵み神のあわれみを勝ち取るまで決してあきらめることのない私たちの限りない努力をも要求します。
明け方ヤコブは戦いのあったその場所を「神の顔」を意味する「ペニエル」と呼びます。それは彼自身が「自分は顔と顔を合わせて神を見たにもかかわらず、自分はまだ生きている」と言ったからです。
私たちも祈りにおいて信仰のよい戦いが出来るよう神に助けを願いましょう。神のみ顔を仰ぐことを心から渇望している私たちを祝福してくださるよう祈りましょう。








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